河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

好き、嫌い

2017-03-06 01:20:02 | 絵画

好きか嫌いかで大方の物事は選択される。多くの日本人は論理的帰結より以前に、二者択一の好き嫌いにはまる。合理主義は国民性にあっていないし、楽だからだ。いくら情報があっても、フェイクであること、不十分な情報であることが、大方を占めているのだから、優柔不断に陥るより、時間の無駄はない。Aにするか、Bにするか選ばなければならない時、どちらでも良いから、どちらか選んでから、始める。始めてから考えれば良いではないか?

絵を描き始めたとき、好きで描いていて、素直だった。アマチュアだったので、楽しかった。モティーフは物だったが、そのうち物でないことに気が付く。ややこしく、これは具象絵画ではないと思ったが、具象絵画というものは、目に見えていないものを感じさせるように描くのだと分った。

優れた作品に魅力を感じるとき、絵具という素材の美しさと、絵具が包み込む形の美しさに心を惑わされる。その典型がレンブラントの描く自画像に様々な変容が見られる。彼の絵具の厚いところ、薄いところは数十倍の変化がある。絵具のマチュエールを味わいながら料理したに違いない。こうした彼の表現の深さは「好き」の追求で生まれたに違いない。

もうお分かりかと思うが。正直言うと私は近現代美術が嫌いであり、古典の巨匠の絵画が好きである。

事の始まりは単純だった。高校生だったとき、美術クラブで受験を準備して、石膏デッサンに打ち込んでいるときに、同じ三年生のS君が石膏デッサンはほどほどに、彼は自分の感じるところに従って、抽象のオブジェを作っていた。私は何か無理があるのではないかと思っていたが、浪人になっても美術研究所と呼ばれる、美術予備校の浪人生の中に「美術手帖」を小脇に抱えて、ひと際、人と違うことをしようとする者がいた。

人それぞれで、好き嫌いは勝手であるが、何かが違うと思っていた。美術大学に入れば、否が応でも考えさせられるであろうことだが、物事には順序があると、保守的に考えていた。

誰もどうすれば良いのか教えてくれなかった。四畳半で風呂なし、トイレは共同。陽は入らず「闇の間」と呼んでいた自分の占有空間。70年安保で腰が浮いていた。頭もどうかしていたが、民主主義が無視された時代だ。多くの若者が気分で左翼運動に感化され、自分もアナーキーであると思っていた。ただどんな権力が許されるのか理想も現実も感じなかったから、やたら本を読んで影響された。

時流に流される自分は、世の中の在り方を少し考え始めた頃であった。

しかし東京造形大学に入学してから、流されてたまるかと意地を張るようになった。造形大学はそれこそ私の嫌いな現代美術の美大だったのだから。入学してしばらく大学は「学園封鎖状態」だった。

しかしこの大学はカリキュラムは強制ではなく、自分に感じるところがあれば、教授に自分のやりたいことを宣言できた、奇妙な大学だった。いや、それ以外にお金も設備もなかったし、教授も「教えること」が無かったのだ。まあ、後で気が付いたのだが・・・・。そこでは永居はできなかった。

当時の自分が知りたかったことを誰も教えてくれなかったが、先輩の青木敏郎氏が刺激を与えてくれた。彼はそれこそ、時流には無縁、我が道を行くスタイルだった。これは当時、一番大事なことだったのだ。

好き嫌いは表現の第一歩であると言えるだろう。

しかし、これに対立する考え方を述べないと、議論の余地が残る。ドイツ的に言うと「オピニオンは個人的主観のみでは成立しない」ということ。

美術大学は美術を教える教育は行っていないということで、教授たちの個人的レベルに左右され、教育内容は偏っているのが、この国では普通だった。要するに、古典から現代美術まで、西洋や東洋美術と体系だった知識は教えないし、その存在さえ無視して、ビギナーでしかない学生は選択の余地も与えられていない。つまり情報も考え方も教わらず、好き嫌いも言えない状態だったというべきだろう。

偏った考え方、表面的な知識、未熟な技能で何が生まれるのか・・・・? 結局、自己の正当化だと思う。自分の存在を正当化した時点で、人生の行く先は目の前にあり、終点であろう。

好き嫌いも選択の一つではあるが、これだけで過ごすことはできない。好き嫌いから脱出するのに、知識に依存しすぎると「観念的」になってしまう。実際から離れるからだ。

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