好きか嫌いかで大方の物事は選択される。多くの日本人は論理的帰結より以前に、二者択一の好き嫌いにはまる。合理主義は国民性にあっていないし、楽だからだ。いくら情報があっても、フェイクであること、不十分な情報であることが、大方を占めているのだから、優柔不断に陥るより、時間の無駄はない。Aにするか、Bにするか選ばなければならない時、どちらでも良いから、どちらか選んでから、始める。始めてから考えれば良いではないか?
絵を描き始めたとき、好きで描いていて、素直だった。アマチュアだったので、楽しかった。モティーフは物だったが、そのうち物でないことに気が付く。ややこしく、これは具象絵画ではないと思ったが、具象絵画というものは、目に見えていないものを感じさせるように描くのだと分った。
優れた作品に魅力を感じるとき、絵具という素材の美しさと、絵具が包み込む形の美しさに心を惑わされる。その典型がレンブラントの描く自画像に様々な変容が見られる。彼の絵具の厚いところ、薄いところは数十倍の変化がある。絵具のマチュエールを味わいながら料理したに違いない。こうした彼の表現の深さは「好き」の追求で生まれたに違いない。
もうお分かりかと思うが。正直言うと私は近現代美術が嫌いであり、古典の巨匠の絵画が好きである。
事の始まりは単純だった。高校生だったとき、美術クラブで受験を準備して、石膏デッサンに打ち込んでいるときに、同じ三年生のS君が石膏デッサンはほどほどに、彼は自分の感じるところに従って、抽象のオブジェを作っていた。私は何か無理があるのではないかと思っていたが、浪人になっても美術研究所と呼ばれる、美術予備校の浪人生の中に「美術手帖」を小脇に抱えて、ひと際、人と違うことをしようとする者がいた。
人それぞれで、好き嫌いは勝手であるが、何かが違うと思っていた。美術大学に入れば、否が応でも考えさせられるであろうことだが、物事には順序があると、保守的に考えていた。
誰もどうすれば良いのか教えてくれなかった。四畳半で風呂なし、トイレは共同。陽は入らず「闇の間」と呼んでいた自分の占有空間。70年安保で腰が浮いていた。頭もどうかしていたが、民主主義が無視された時代だ。多くの若者が気分で左翼運動に感化され、自分もアナーキーであると思っていた。ただどんな権力が許されるのか理想も現実も感じなかったから、やたら本を読んで影響された。
時流に流される自分は、世の中の在り方を少し考え始めた頃であった。
しかし東京造形大学に入学してから、流されてたまるかと意地を張るようになった。造形大学はそれこそ私の嫌いな現代美術の美大だったのだから。入学してしばらく大学は「学園封鎖状態」だった。
しかしこの大学はカリキュラムは強制ではなく、自分に感じるところがあれば、教授に自分のやりたいことを宣言できた、奇妙な大学だった。いや、それ以外にお金も設備もなかったし、教授も「教えること」が無かったのだ。まあ、後で気が付いたのだが・・・・。そこでは永居はできなかった。
当時の自分が知りたかったことを誰も教えてくれなかったが、先輩の青木敏郎氏が刺激を与えてくれた。彼はそれこそ、時流には無縁、我が道を行くスタイルだった。これは当時、一番大事なことだったのだ。
好き嫌いは表現の第一歩であると言えるだろう。
しかし、これに対立する考え方を述べないと、議論の余地が残る。ドイツ的に言うと「オピニオンは個人的主観のみでは成立しない」ということ。
美術大学は美術を教える教育は行っていないということで、教授たちの個人的レベルに左右され、教育内容は偏っているのが、この国では普通だった。要するに、古典から現代美術まで、西洋や東洋美術と体系だった知識は教えないし、その存在さえ無視して、ビギナーでしかない学生は選択の余地も与えられていない。つまり情報も考え方も教わらず、好き嫌いも言えない状態だったというべきだろう。
偏った考え方、表面的な知識、未熟な技能で何が生まれるのか・・・・? 結局、自己の正当化だと思う。自分の存在を正当化した時点で、人生の行く先は目の前にあり、終点であろう。
好き嫌いも選択の一つではあるが、これだけで過ごすことはできない。好き嫌いから脱出するのに、知識に依存しすぎると「観念的」になってしまう。実際から離れるからだ。
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