河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

技法と技巧

2017-09-10 00:51:50 | 絵画

何かを表現しよとすると、必ず技法と技巧が必要になる。

現代アートが基定するところの「どのような手段を用いてもよい」「これまでなかった新しい方法で」「人を驚かす内容を」表現するとき、全く型破りで、自由で、どのような表現方法を選んでも良いとする表現では、その目的の如何によっても、何者もそれらの不自然も、不道徳も、不合理も止められない。それが芸術であるかどうかも、議論も出来ない。

前にもすでに述べたように、現代アートは現代美術ではないと考えるがゆえに、技法と技巧の話をしてみたい。

現代美術と現代アートを区別するのは、表現に技法と技巧が尊重されることで、「適切な表現性」が存在しているかどうか明確に出来るか否かの問題をややこしい議論の末、意図もせず制作されたものに「何か」があるような結果を「言葉」で修飾して、無いものを在るがごときに言う詐欺師のような話にしたくないので、とにかく現代アートには関係ないと思われたい。

しかし時すでに遅く、現代アート的な「何をやっても良い」という考えは、現代ではあらゆる場面で若い世代に浸透し始めている。「何をやってもよい」を否定したくないけど、「何をやっても良い」から、何かが生まれるとは限らないと、言っておかねばならない。

さて技法は表現手段のであり、表現したい結果を導き出すための方法のことで、誰もが選択できる。例えば絵画であれば、油絵の具、水彩絵の具、クレヨン、パステル、チョークなどを選んで、その最も有効な使い方を、才能のあるなしにかかわらず選択できる。それに対して技巧は能力によって表現の可能性を拡大できる方法を意味する。この方法は頭で理解して言葉に解説できるが、実際に使いこなすには努力で行う修練や、それを支える感性でのみ実現可能となる。この二つは表現の最大な結果をもたらすために同時に必要なものである。

近世までは、この技法と技巧とは「能力」であった。宗教画も神話も描いて表すことで初めて説得力があり、またどう表現するかが求められたために、技法も技巧も、二つがバランスでもって一点の作品を完成させた。「何をやってもよい」という考えはありえなかった。何をやってもよければ、技法はあっても「技巧」は失われる。技巧の獲得には修練が必要であって「何をやってもよい」というコンセプトから外れるからだ。

伝統は長い間を通して、多くの人によって完成形を創り出し、視覚的に確認できる状態にしてきたが、言葉で伝統を破って「何をやってもよい」といっても、それによって目的が達成されたかどうか疑わなければ、小中学校でやった図画工作のレベルでしかない。

実際にそれらは技法の反乱という形で起きていいる。例えば展覧会での作品を紹介するキャプションの技法材料を示す欄に「ミックスメディア」と書かれていることがある。油絵か水彩画かと言わず、何やら新しいことを試みた結果、このようなジャンルで表現する。それは油絵にクレヨンで上描きしたとか、水彩画にパステルで描き足しがされているとか、それまで単独で用いられた素材を同時に使って表現したといういみである。何かが新しく生まれたと思うのは自己満足する作家と新しがりの評論家であるが、何かが実現されたかどうか、「冷静に考える」必要があろう。

修復家からみると、技法をミックスするとより違った効果が得られるとは思わず、将来への保存に困難が生じたと思うだけである。油絵の具とクレヨンはその表面に汚れが付いたら何も出来なくなる。クレヨンはこすれば簡単に落ちてしまう。クレヨンを練って作ってあるワックスはアルコールに溶けないとしても、今度は油絵の方が溶ける。そうすると水で慎重に汚れを取るが、クレヨンには近づけない。また水彩画にパステルで描き足したとすると、通常パステルは固定しなければ剥落する。特に厚塗りすれば層状になって大きく落ちる。しかし固定のためのフィクサチーフは水彩画の完成した表面の表情を変えてしまう。「その程度はどうでも良い」と言ってしまえば技法と技巧が明らかに無視される。

近代絵画にはカルトンに油彩という作品もある。画材屋が出来てから、厚紙に地塗りしたものやキャンヴァスを貼ったものなどが市販されるようになった。しかし、これは地塗りがされていなければ油彩の機能は失われる。つまり脂分が紙に吸い込まれて、硬くパサついた表面になるが、紙の方は油じみが出来て濡れ色になり、将来酸化して紙は劣化して、絵画を載せている素地としての役割は失われてしまう。近代フランス絵画に絵具の表面がつや消し状態になっているのを好む流行があった。それらの画家たちは絵具の顔料を練り合わせる油を抜いて、揮発性の高い溶き油とませて描いたりした。その結果、それらの作品はパサつきと、その表面についた汚れで色調を失って、当初の目的は果たされなくなった。実技を知らない学芸員や美術評論家には原作時の表情がどうであったか想像できないであろう。

日本画では紙や絹に膠で絵を描いたが、長い歴史の中で、伝統で培った完成度は材料技法から表現様式、そして理念にいたるまで一貫した表現となった。だからそう簡単に表現が「何をやってもよい」状態にはならないことを現代人は学ぶべきだ。情報が氾濫すると、観念的な世界が先行して現実の問題が分からなくなるのは、現代の問題だ。我々は歴史を冷静に振り返って先人に学ぶことも必要だ。

日本画の長い伝統にもいくつか問題があって。絹に描くとき「礬水引き(どうさ)」を吸い込みを抑えて絹の表面が暴れるのを防ぐために行うが、長い年月で見ると、固定された繊維が動こうとしても動けないために、繊維の劣化が激しくなって切れることもある。作者はすぐには確認できなかったであろうから、今となって表れている。伝統から学ぶことは、それらを今後どう扱うか学ぶことにもつながる。

技法と技巧に拘って、表現の内容がおろそかになることは歴史中に多く見られるが、基本的認識で「手段」であるので、制作者は自分の表現に最適な技法や技巧は個人的に追求しなければならない。イコン画のように表現内容も様式も、技法、技巧まで固定されていると創造性は失われるが、彼らに個人的に許されたのは、ルールの上で熟練した技能を発揮することだった。そうしてすぐれた作品が今日まで残っている。ビザンチンの画工たちがイタリアに宗教的表現の革新をもたらし、チマブエ、ドゥッチョに新たな表現力を与えたことは明らかだが、技法と技巧が伝統を創り出した例だろう。

しかし、現代の画家たちの技法や技巧に対する考え方は実に憂慮に耐えない。技能(能力)による表現の時代は終わったように考える者が作家だけでなく、彼らを扇動する学芸員や評論家に多い。そこで和紙に油彩絵の具を用いる者も「試すことで新しい表現が生まれる」「タブーを破ることで新しいものが生まれる」とかいうから、和紙の良さも油絵の具の良さも生きない。むしろ殺すことが目的であったりする。

 表現が境界線を失って暴走しても、必ず元の自然な在り方に戻る。なぜなら人間の感性には限界があって、自分の感性や考え方に自信が失われたとき臨界に達する。そして技法や技巧を持たなかったことを悔やむだろう。

表現が個人の問題になってしまった今日では、技法や技巧も個人のレベルを超えることもない。そのことが画材が革新して優れたものが手に入るにもかかわらず、その優位を生かしきれないのは、時代の運命として受け止めるしかないのだろう。