河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

落ちの無い絵画は・・・・

2017-09-30 02:21:16 | 絵画

NHK金曜日のあさイチで「パターソン」という題の「落ちのない映画」を紹介していた。変わらない日常の生活をストーリーとしていて、観る者は時間とともに展開しながら何かが起きることを期待するが、主人公の人生に良いこと悪いことという二元論的な結末が組み込まれている「見込み期待」を裏切る。何事も起きなくて終劇する。

観た者は期待を裏切られるが、観客は期待したことを反省させられる。悪い意味ではなくポジティブに考えると終わった後の映画の物語に、その後主人公に何か良いことがあればよいなーと思うかもしれない。映画のストーリーに引き込まれて芸術的表現は完結しており興味深く感じた。

そこで、絵画にも落ちがないことがあり得るのか考えてみた。

一枚の絵画には映画にあるようなセリフもなければ、展開性もない。一点で表現の世界が完結していなければならない。ここで言う完結は完成度のことだが、目の前のものが「これ以上でも、これ以下でもない」状態の完成度には制作者の個人的限度や差異が観る側との間にどうしてもある。与える側と受け取る側の立場の違いから、テーマによっては感覚的な受け取り方に差も生まれるので、完結していると感じるかどうかの疑問も残るであろう。しかしこの完成度こそ「絵画の落ち」なのだろう。

制作者が見せようとしたことは「これが完成であると筆を置いたとき」が完成であり結末であるが、この時絵画の作品の中に、何が言いたいのか分からないほど無能あるいは怠慢なレベルであるかどうか、多くの人は疑いもなく、在るがままを受け止めてしまうであろう。そこには落ちに当たるものなければ、主張もない。

前にも述べたように、芸術表現は虚構であり、我々の現実から隔絶し、自律した世界でなければならない。その世界の存在感を強く感じる錯覚を利用して表現しているので、このミソは抑えていなければならないが、絵画つまりお絵かきレベルの人が多くいても、個人的な価値観の時代であるが故、その基準の曖昧さに混乱させられている。(今日はTVで他にもタトゥーに法的な制限が入った問題をニュースで取り上げていたが、多くの若者はタトゥーを「芸術」だと思っている。彫師自身が「芸術だ」と言って上級審まで争うと言ってやまない。ミッキーマウスが芸術か?タトゥーそのものが芸術にならない、その図案が芸術であるかどうかだから、紙の上でも描いて表現すればよいことだ。人の体に彫る行為が芸術ではなく、医療行為と同じ衛生面や技術面が資格として問われているのだ)芸術だというと皆が大事に見てくれると思っているのだろう。だから何でもアート、何でも芸術になる。

映画であれば、可能な限り無能や怠慢は無いように思う。映画製作には膨大なお金がかかるし、役者やスタッフをそろえなければならない。伊加減なことをすれば、ストーリーを演じる役者が怒り出すに違いない。そこには役者の技量によって、観る者を作中に引き込むだけの虚構を創り出せる。しかし役者の演技が芸術なのではなくて、劇のトータルな仕上がりが芸術であるかどうかだ。

映画には落ちが無くても成り立つ。いや、実際には落ちはあるのだが、「正義が勝つ」「ハッピーエンド」とかポピュリズムの落ちを持たないことこそ、芸術的表現を感じさせる手法として、落ちは見る側の者が後で感じるものとして考えれば良いと言える。

一枚の絵画ではそういう訳に行かない。なぜなら静止した画面の中の出来事は映画とは違ってストーリーによって伝わらない。目で見たという視覚的記憶によってのみ、感想を得られるからだ。視覚訓練を積んでいるかいないかで、この記録力は大きく異なる。だから絵画には落ちが必要だ。先に述べた「完成度」であり、強烈な世界に引き込む力だ。先にトルストイの芸術観について述べたとき、ジャン・フランソワ・ミレーの《晩鐘》が優れた芸術の見本だと言っていると紹介した。まさにミレーが生きたフランスの農村の夕刻、教会の鐘の音に合わせて一日の祈りを捧げる瞬間を切り取って絵画にして、見せ場を作っているのだ。勿論誰にも出来ることではなく、彼の信仰心の深さから、その完成度は実現している。

この完成度は言うまでもなく、何を最も言わんとしたかだ。誰もが作品を作る以上、その質を問われる。