河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

油絵の具の魅力

2018-02-03 14:46:44 | 絵画

美術大学を志した頃、山口大学教育学部であったであろうか、展覧会を見に行った時、やたら油の匂いが鼻について「なんじゃこりゃ・・・」と言いつつ帰宅したのを思い出す。描かれていたものは全く覚えていない。絵具がまだ乾燥し切れていない生のままの絵具で、触らないでください「ペンキ塗り経てです」と言われなくても、近寄りたくなかった。

絵具の魅力というものを美学生であったころまで意識できなかったのは、身近にそれを感じさせるものが無かったことに由来した。1972年に東京造形大学で学び始めた頃、青木敏郎氏と出会って、彼がやたらと「お前ら、これをどうやって描くよ」とやたら感心して強調したのがレンブラントの晩年の自画像であった。当時は気味悪く「皮膚感覚」が感じられる絵だと思ったが、そのリアリティがこの日本には何処にも見当たらないものであることに、ある種の隔絶を覚えた。それは遥か歴史の彼方に失われた技術だと思ったが、それがレンブラント個人が獲得した「感性」であり、絵具の可能性を見出した洞察力の結果であることに少しづつ気が付くことになる。

これは評論家が実証なしに頭で理解することではない。模写に挑戦して初めて気が付いていくプロセスなしには得られない感覚的な理解である。

現代の我々はあらゆる場面で物質的な豊かさを享受できる。その物質は一人の人間が一生を通して手にすることが出来ても、その有益な使い道を経験できるだけの時間がないほどの量であろう。だから物質の有益性を最も効果的に自分が満足できるであろう程に手に入れ、使いこなすだけでも一生を費やすに違いない。絵を描く者にとっての「画材」はまさにそれほど物質的豊かさの時代に入って、使う側の選択が重要な方向性を与えている。

しかし、現実は多くの絵を描く者によって、いい加減な知識や態度で画材はまさに死んだ状態で使用されている。

横尾忠則の制作をTVで紹介している時、彼が「ピカソが自由奔放に描き続けているのに感銘して、彼と同じように制作しようと思っている」と発言したのを聞いて、まさに彼の作品では絵具には気を使う気がないのだとよく理解できた。ピカソ自身もチューブから出た絵具をパレットに移すことなく、筆にとってカンヴァスに練りつけているのを、作品上に認められる。横尾忠則も全く同じで、パレットは絵具を置くだけで、次の瞬間、筆にとってカンヴァスに直に塗られている。だから原色そのままで、彼の色彩感覚の基準がそれ以上でも以下でもないと言える。そして絵具は両者にとって単なる道具でしかない。カンヴァスに対しても、その白い地塗りがされている状態が露出して放置されている。絵具もカンヴァスもどちらも保存上不完全である。

これまで述べてきたように、チューブの絵具は利便上チューブという器に入れてあるだけで、そのまま使用できる状態にはされていない。パレットとパレットナイフの使い方も、パレットの上で絵具の混色や、メディウムと混ぜ合わせて描画用に準備するためのものである。そういう意味では、使い方を知らないというだけでも「幼稚園児なみ」であることに違いない。

現代の時代性から来る問題として、「物事の観念的な理解」というのをたびたび取り上げてきたが、説明書を読んで始めるのは初心者には許される(それさえしない者もいる)が、経験者となれば「経験的理解による教訓」というのがあって、しかるべきだと思う。我々は歴史から多くを学ぶだけの権利と機会を与えられても「観念的な理解」によって、「思考停止と感覚的排除」をすることで多くを失っている。

昔の画家たちの絵具を想像してみて欲しい。彼らは自由に何でも入手できたわけではない。突然「絵描きになりたい」と言っても独学で始められない社会だ。物がない、情報がない社会で何が始められよう。絵描きになりたければ17世紀頃の北ネーデルランドであれば、すでに絵描きとしてギルドに登録されている画家の弟子になって、画材の扱い方や画法を教えてもらう他なかった。つまり「伝統と伝承」を授かることで、プロの世界に近づくのだ。そして材料の入手は自分の師匠が持つ政治力に左右されたであったであろう。カラフルな土系の顔料はイタリアから、アズライト(群青)はドイツから、ラピスラズリはアフガニスタンから、朱は中国から、亜麻仁油は南ネーデルランド、ヴェネッアターペンタインはイタリア北部などと当時の海運力の賜物で、オランダ、イギリスの東インド会社などが物質世界を広げたおかげである。

画家たちがそれほど厳しい条件下で制作していたと言えることは、画材を大事に扱うことと、その結果生じる「完成度の高さ」に具現化されたであろう。スペインの画家ホセ・デ・リベラの画面をよく見れば5色ぐらいしかないことに気が付くであろう。結局、最終結果は「描写の力量」なのであった。彼が使った絵具は土系顔料、白(鉛白)黒(ランプブラックかブドウ墨)、そしてたまにマリアの衣のヴァーミリオン(朱)とアズライト青である。青は空の色かマリアの衣の裏の青色ぐらいで、あった。黄色はイエローオーカー、緑はテルベルト、肌の赤みはテラローザと土系で賄うことが出来たが、多くの人が古典絵画はみな暗いと思い込んでいるのはバロックの光と闇の扱いで表現様式であって、「時代が暗い」のではない。

バロック時代には光は絵画の劇的効果の為になくてはならない要素だった。

それまでの中世、ルネッサンスの絵画には光を劇的に扱うことで、絵画効果を与える方法は存在しなかった。それを広く活用し広めたのはイタリアのカラヴァッジョであったカラヴァッジョがハイコントラストな表現でドラマチックに登場人物に焦点を当てさせたのと違ってレンブラントは柔らかな光を演出した。この時代の人物画のX線写真には人物の明るい個所には必ず鉛白が用いられていて、白黒陰画ではなく、そのままの明暗を示す陽画をそのまま表すような使い方がされていた。勿論中には描き直しや描き加えをする画家もいたが、いかに絵具の無駄なく表現されていたか示している。そこに筆遣いというものはくっきりと表れ、達筆さが作家ごとに特徴として出る。

特に見事なのがレンブラントであり、表面上上手く似せたコピーや贋作が作れないのは、この筆遣いで現れるタッチ(筆致)である。彼の絵具は独特な硬さを持っており、豚毛のような硬質な筆で描くののではなく、オックス(オス牛)毛くらいの腰の強さの筆で、でペタペタと置いたような柔らかいものであった。鉛白の白をそのまま用いた個所では絵具が糸を引いた跡があり、かなり粘っこいものであった。しかも指触乾燥は早く、ハチミツの様にだらりと平たんにはならない。この絵具は亜麻仁油と樹脂の混合油で練り合わせた後、ツボに入れられて寝かせておいたものに違いない。彼の描く絵はモチーフすべて同じ絵具の硬さではなく、それに応じた絵具で表現したと言える。彼が少年期に指導を受けたペーテル・ラストマンが柔らかい絵の具で人物の肌をぬるっとした柔らかさで特徴的な表現を行っていた影響が大きいであろう。生涯にその影響と思われる絵具の扱いが認められる。彼が用いた絵具の感触は彼が多く残したエッチングにも表れていた。それほど描き方の感触は共通のベースになるということだ。

もう一人特徴的な絵の具の扱い方はファン・アイク兄弟であろう。白い地塗りの上に当たり付けデッサン、各部に不透明な固有色で描写を行い、更に色彩を美しくする透明絵具のグレーズを重ねることで成り立っている。その絵具の厚さは決して地塗りの白を殺すほどの厚さは無かった。いまだにこの国の絵画技法案内書では、下描きにグリザイユ技法を用いて、その上にグレーズを行ったように記述しているものが横行しているが、間違いである。またテンペラ絵具を用いた混合技法であると思っている者がいるが、間違った推測である。科学調査で報告が既にされている。

兎に角ファン・アイクは各色の絵具が持つ特色、メディウムをそれぞれの有効な加工などの準備と描き方で使いこなしたというべきで、当時としては最先端技術に相当したであろう。先に述べたように物質も情報も豊かでない時代に、自ら新しい見識を積み上げて「絵画」に仕上げたのである。今日なお宝石のように輝く彼の絵画表面はあらゆる条件の試みによって完成したと言えるだろう。

やはり「美術は視覚に訴えるもの」である以上、ピカソや横尾忠則で思考も感性も停止してほしくないものだ。