河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

Le cirage

2018-02-11 02:09:28 | 絵画

cirage(シラージュ)は仏語で蝋を引くという意味で、床や靴などに蝋引きすることを意味している他に「黄色く描いた絵画」を意味する。輸入ではなく西洋で身近に手に入る蝋と言えば「蜜蝋 beeswax」のことでミツバチが巣作りの時口から出して、あの六角形の巣を作るので、それをお湯に入れると黄色いワックスが得られる。つまりこの黄色からシラージュという。Rembrandtの下絵のシラージュは良く知られていると思うが、淡彩画であるため明暗の画面構成を作り易く温かみを感じる。grisaille(グリザイユ)はこの淡彩画の総称であるが、フランドルでは中世期から淡彩の絵画は描かれることが多く、大理石などの彫刻を描けば自ずと淡彩画になるが、そうしたモチーフの選択から発展したのかもしれない。単色の濃淡や明暗で立体や空間など描くことが出来、デッサン画の一歩進んだものと言える。別の稿で述べたこともあるダヴィンチの未完成下絵状態の《岩窟の聖ヒエロニムス》がテンペラでこのシラージュに近い状態であるのを見たことがあるだろう。下絵として上描きに彩色を増やす手前の構想を明確に捉え、次のプロセスを明確に示している。

これも前に述べたと思うが、ファン・アイクの絵画の下絵として淡彩画が先に描かれているという、この国独自の誤解について指摘したが、同時に大きな誤解としてグリザイユは「白黒画」だと思っている人も多いこと。いずれにせよフランドル絵画の下絵、あるいは下塗りは彩色そのもので行われており、画面を汚すこと、あるいは暗くすることになるグリザイユは行われていない。フランドル絵画の基本は地の白色を生かし続ける画法なのである。

ボッシュの《聖アントニウスの誘惑》のトリプティック(三簾祭壇画)の左右翼の裏面には白黒のグリザイユがあるが、全くの白黒ではなく、その下に薄い黄土色の下塗りがある。この裏面は日ごろ閉じているため表としてまず人々は見て、扉を開いて見せてもらうと「総カラー」になるという仕掛けだ。グリザイユのテーマは刑場にひかれるキリストと人々に卑しめられるキリストが描かれていて、まず観る者の気を引く。

この頃から淡彩画のデッサンも素地となる紙を黒豆の煮汁で灰色に染めたり、様々な色彩で準備した背景となる色を用いて黒チョークなどでデッサンした作品が多く見つかる。さらに白でハイライトの部分を入れて、立体感を強調するなどの工夫がされる。こうしたデッサンは保存上の理由から、光に暴露することを嫌うため、展覧会で目にすることは少ないが、もし観覧する機会があればぜひその役割と、下絵であるが故の「新鮮さ」を見ていただきたい。