河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

具象絵画の完成度

2018-03-10 22:58:07 | 絵画

今回はすごく個人的な基準を書くが、タイトルを「絵画の完成度」としても良かった。端から抽象(絵画)や観念アートなどは絵画のジャンルに入れていない。(文学には純文学と大衆文学とが分けられているように・・・だ。)抽象画があっても、そこに「我々の住む現実から離れて自律している世界」を感じないからである。以前から述べているように「自律」という言葉を用いているが、それは作品画面の中にそれだけで充足していると感じさせる条件が整っていることを意味し、別世界として存在しているように感じる・・・つまり錯覚することが必要条件である。その自律の度合いが「完成度」である。

自律していると感じるには、見た目十分騙される状態が実現していないといけないが、鑑賞者が作品の前に立った時、作品全体がよどみなく見渡せて、すんなりとその世界に気持ちが引き込まれること。文学でも音楽でも同じであるが、その世界に疑いもなく引き込まれる魅力が必要だ。

作中に奇妙な、経験したことのない、理解に苦しむものがあったとしても、それは絵画という虚構であるが故であり、全体のバランスに溶け込めばよいことだが、その判断は作者の基準だ。あるとなしとを決めるのは作者だが、作者の力量を問われる。

創作性の少ない風景画、静物画、人物画では「充足している世界の条件」は最初から先入観で補助されているから、完成度の中に「我々が住む世界から離れて自律している」と言えるべきものが作られているとは、今一言えないであろう。17世紀の静物画が当時、芸術性が低いとされたのもその一つだろう。勿論、中には創作性も抜きに出たものもあって、レオナルドの《モナリザ》やヴェラスケスの《ファン・デ・パーレハの肖像》、スペインの静物画家メレンデスの《銅製の水入れのある静物》は動かしがたい完成度と存在感を見せつける。フェルメールの《ミルクを注ぐ女》は人物画ではなく、構想画の一つだが、言葉を失うほどの世界が創られている。

そうすると完成度の高さはモチーフの選択ではなく、表現の実力ということになるだろう。そこには「品性」というものが必要だろう。(むかし「国家の品格」という本が評判になったが、中身は軽く、著者の個人的基準で言いたい放題を述べたものだったが、品格を述べるに「品性」が無かった)「品性」とは言葉になかなかできない難しい問題だ。「品」のある状態を語ろうにも、ポピュラリズム(大衆迎合)の基準では困るが、だからといって鑑賞者の感性に訴えることが必要で、この基準を何と表現しようか?フェルメール作品の様に理知的で物静か・・・・。威張らず、主張しすぎず、控えめな中に確信が感じられる。

 やはり絵画の究極の世界を言葉で表すこと自体、間違っている。