あいちトリエンナーレ問題で少し自分の「表現の問題」を考えてみる。
中止となったトリエンナーレ出品者の中には、実行委員会無視で中止となって、や展示作品の中身や出品者の名前なども判らないまま、たち切れになって怒っている出品者がネットに意見を載せていた。「なぜ慰安婦像とされる作品と一緒に展示されるのかも知らされいなかった」と、「知らされていたら、出品を考えたかも」と言っている。その出品者は現代アートではなく、視覚表現の「美術作品」を目指して、政治的でも思想的でもない表現で、「一緒にされたくなかった」という意向では、彼の制作意図は私の制作理念の基礎的な考えと同様であり、現代アートの「主題は何でもあり、表現方法も何でもあり」と一緒にされたくなかった気持ちは理解できる。
今回のトリエンナーレの問題は津田大介氏の個人的な思想信条から思い付きで、組織運営も常識、良識が配慮されていなかったというところだろう。だから「表現の自由」に議論が集中するのは、企画展の質のレベルを飛び越えた「高尚」な議論だから「芸術表現」と「そうでないもの」の議論をせず、「表現の自由」を観念的に論じる現代人の悪い傾向は決して「建設的」ではない。
現代アートでも現代美術でも専門でもない津田氏に、今回の企画を任せたのは、テレビでの露出が多かった彼の知名度で、格好を着けようとした愛知県の担当者が未熟だったということ。要はお祭り感覚で「話題性」を狙って、「誠実な議論」の余裕がなかった。
自分はこのような場面には無縁であるが、やるとすれば個展を場末の画廊で出来れば良しとする。私は「制作のコンセプト」を狙って「物を言う」でもなければ「伝わらなければ言葉で表現する」ようなことはしない。「美術作品」だから「視覚的に充足した状態で完成」しているはずの、「それ以下でもそれ以上でもない」作品を見て欲しい訳だが。昨今の企画をする学芸員に観念アート志向の者が多いのは残念である。彼らは作者の「多様な制作意図」を分別しないで展示しようとするからこうした表現の問題が起きる。
自分のことを言えば、ここ数年制作から遠ざかっていて、気分が載らなかったが、自分の生きざまに「覚悟」が足りなかった。反省する。
これまで二十数回も引っ越しをして気分は落ち着く暇もなかった。しかし自分の気持ちの落ち着くまで「安住の地」を求める自分には「心情」を明らかにしておきたい自分が絶えずいて、満たされなければ訴訟でも起こしかねない反抗心があって、絵画表現から遠ざかってしまう。しかしこれを表現するのが「アーティスト」だと言わないし、「自分は芸術家」とも思わない。ただ自分の絵の中に具体化したいイメージがあって、それを実現できるように自分の技量を磨いている最中だ。