絵を描く上で、目の前に物を置いて描けば「写生」という。「描写」とはその写生でも、見えている物以上にそこにある存在を洞察して描く事である。つまり見えているように描くのではなく、見えていないことも描くのである。
これは「絵空事」の世界に近づき、「無いものを在るがごときに表す」ことである。さらに画家は自分のイメージの世界を持っている(絵を描いている者全てが持っている訳でなく、優れた者という意味)がその世界は視覚的記憶の中で作られた世界であって、子供がお絵かきをするとき、モデルなしで人の顔を描いたりするのと同じ感性である。ぼんくら画家はこの視覚的記憶を持てない。
別の話から入るが、NHKの正月時代劇というのがあって、伊藤若冲を主人公にした話で、彼の精神的支えとなった僧侶との友情(?)というか、演出でいつの間にか同性愛的絆が表現されていて、彼の絵画世界については全く触れられていなくて失望した番組であった。この僧侶との付き合いで若冲が何かを悟って彼の絵画が発展したような経緯であったが、歴史的事実があるのだろうか?一部画面に模写や作画工程が示される場面もあったが、それは演出の一部でしかなく、素人だましであった。この演出の中に池大雅や丸山応挙が登場するのだが、これも刺身のつま程度だが、若冲の初期の作品を、この僧侶が若冲と知り合う前に初めてみたとされる場面で丸山応挙にふんする役者に「このかぶらの葉先が枯れているところまで描かれているが、実際と違ううそ」だと言わせる。誰がこのセリフを思いついたのか?
丸山応挙がバカ丸出しでこんなことを言うか!!絵画は昔から「絵空事」で事実を描く事ではないことは誰もが知っていただろう。どの様に描くかは作者の真骨頂であり、「売り」なのである。私に言わせれば、この作品はすでに若冲の愛した鶏のモチーフであり表現様式である描写が完成している作品であり、僧侶と出会って開眼したわけでもないと言える。
昨今、現代アートの観念的表現と「描写の絵画」が区別され、前者が主流とされる世の中にあって、「描写の絵画」の描写の意味が良く理解されていないことは残念である。特に実在する画家の実際から離れて、面白おかしく演出させて番組を作るNHKの質の悪さを感じたのは誠に残念である。