一昨日のNHKのドキュメント番組であった。藤彌(ふじや)さんと言ったか、見た目女性の若い人が島根県邑南(おうなん)町の村役場に勤務する人だが・・・。東京の会社に勤めていた時にはスカートをはいて勤務しなければならない環境に疲れて、島根県の田舎町に救いを求めたのだが、取りあえず町役場に職を得て懸命に働き、町に役に立ちたいと頑張って様々な行事などには限定る姿を記録している。町の中でもっと自分を認めてもらいたいと思た時、ふじやさんは自分の感じていること、思っていることを町の人多たちに話し始めた。
町の年寄りたちは若い人が過疎の町に来て定着し人口を増やしてくれるぐらいに思っていることに「自分は恋愛したことが無く、結婚もしない」と告げても、年寄りたちは「結婚して子供育てることは女の幸せである」と言い続ける。
またふじやさんは地区の消防団に参加しているが「女」と「男」の区別で、女性がやる役割に加えられ、直接消火に当たる作業には参加させてもらえなかった。ふじやさんんが移住してきたときの家の隣が火事になったとき、必死で消火作業に取り組んだ経験があって、どうしても消火作業に加わりたかったのである。しかし消防団の責任者は「女性を守るのは男の役目、女性に怪我をさせられない」と言い続けるのである。
このドキュメントを見たふじやさんと同じ仲間は「苦々しい気持ちで見た」と言う。まあそうであろう。私も苦々しく、情けなく思えた。ふじやさんのコミュニケーションはすれ違いのまま今日まで続いている。過疎の町に残っている人たちは高齢者で人生を半分以上終わらせている人たちである。外から新しいものが、あるいは未知のものが入って来ても、自分たちの経験してきた以外のものに思考の基準はない。特に個人的な違いは同一化によって地区の均一化に吸い込まれて「理解」が行われている。個々人の違いは見えないことで地区の秩序が形成されると、ふじやさんが何を考えようと「地区の(村の)価値観に納まることが求められるのである。
この国は「集団の価値観」で縛られているのだから、昨今議論に出る「多様性社会」ははなはだ遠い未来であろう。個々人の違いを基本的に認めてから付き合うことなど無いのである。LGBTについて「種の存続にかかわる・・・・受け入れられない」と言った自民党の国会議員がいた。また憲法改正の草案に、「この国に蔓延した個人主義によって社会が乱れている・・・」とか言った自民党の国会議員がいた。これらの発言をする人たちが「村の年寄り」に支持されて戦後60年以上自民党政権を存続させているのである。思考停止しているとはこのことだ。
この国に「個人主義」は蔓延どころか、全く理解されていないと思う。「個人主義が蔓延している・・・」とか言った者は個人主義が分からなかっただけではなく、おそらく「利己主義」と勘違いでもしたのでは。いや、ただ「全体主義」が好きなのだろう。
個人主義は「個人の思想や生き方を尊重する考え方」である。かつてこのブログにこんな事を書いた。元カノとベルリンの町を歩いていた時に、前を腰をかがめて歩く年老いた女性がいた。元カノは「後ろからお尻をけりたくなる」と言ったので「そんなことをしてはいけんでしょう」と言ったら「貴方は私のことを一生分からない!!」と言って怒った。「ええ??どうして?」と聞いたら「なぜ、どうしてけりたくなるのか?と聞かないのか」と言った。この時、私は彼女が私より数段格の高い思考をしていると思った。その時、私はヨーロッパに8年も住んで、日本の教条主義的な「集団の価値観」から出ていなかったのである。彼女とはお互いを尊重して別れたが、今もメールでやり取りしている。両者独身である。
人の考え方はそれぞれだから何でも理解できるとは限らない。しかし理解しようとするか否かは人と接する上で最も基本だから大事にする年寄りでありたい。
ふじやさんの話が聞いてもらえるようになる未来は来ないであろう。ふじやさんは「自分は自分だ」とより強くなるだろう。若い人たちの中から、いつかきっと理解者が現れる。ふじやさんは自分を「男とか女」の範疇ではないと感じている。つまりレズとかゲイとかどちらでもない人間なのだ。
人はある時、自分のことを知って欲しいと願うことがある。しかし大方叶わない願いだろう。それがこの国では独自の国民性と呼ぶべき「集団の価値観、感性」なのだから、自分が自分であろうとすれば「軋轢」が生じて仲間から排除される。だから生きる上で「打たれ強い精神性」を持つしかなく孤独を味合うだろう。
私の経験ではドイツでは違っていたと思う。ドイツ人は物事を曖昧にしないで議論する。質問されたら必ず答える国民性では、相手への忖度は時に不遜な扱いであり、具体性のない意見は不適切、不親切なのだから。意見を述べ合うことで相手を理解し受け止めるのが当たり前なのだ。つまり多様性の社会だ。もし意見を感情的に述べればお終いで、論理的、客観的に整理された意見を述べなければ、感情的な表現に相手は入れないから人間関係はお終いになるのだ。実に学ぶことが多い国だった。ふじやさんいもドイツはきっと生きやすい所だろう。
余談だが聖書に登場する天使は男女どちらでもなく、LGBTでもなく中性なのだ。そう、つまりふじやさんと同じなのだ。理解されなくても、笑顔を絶やさず一生懸命に町の為に、町民のために働く姿は天使のようにも感じる。