河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

クロッキーの功罪

2021-10-05 09:50:05 | 絵画

絵を描く者は必ずクロッキーという言葉に出会う。

クロッキーは短い時間に対象を捉えて描くデッサンという意味だが、何故短い時間に対象を捉えて描かなければならないのか、その答えの合理性を聞いたことはない。

例えば感性で素早く対象の魅力を感じ取る訓練であるが如きに受け止められていて、あって当たり前のように認められていた。誰も個人的に「納得」していたかどうか疑問であったが。

私が一浪で通った高円寺にあったフォルム洋画研究所という、

学校法人ではない、好き勝手に学べる画塾でも、油絵のコースでは皆の合意でモデルさんのポーズを決めるのに、5分間の異なる短いポーズを何回かやってから、その中から選ぶというルールになっていた。その時にクロッキーを描くのであった。

正直言って、5分間はあまりにも短すぎる。モデルのポーズの流れを見ている内に終わるので、いつも苦労した。決まったその後のモデルのポーズは20分間で5分間の休憩となっていて、この20分間も忙しなかった。これで絵が上手くなるわけない。

どうやら近代美術の流れの中で、ロダンなどがアトリエに裸の男女のモデルを自由に徘徊させ、それ緒を独自のクロッキーとして描いたのが残っていて、ロダンのデッサンの代名詞のようになっているからなのか?よほどいいことがあるように思われている。

ブリュッセルの王立美術アカデミーでの絵画の授業はモデルは45分間ポーズし、15分休憩というものであった。私はこの45分間のお陰でしっかりと一枚のデッサンをすることが出来た。45分間動かないでじっとしているモデルの苦労は申し訳ないように思った。クロッキーと言える短い時間のデッサンの練習などなかった。

一方、たいして苦労もなく短い時間で高い時給を稼ぐ日本のモデルは「モデル協会」から派遣され、ピンハネされているとはいえ、もう少し描く方に配慮して欲しかったな。

いずれにせよ短い時間で対象物を捉えて、その魅力を紙の上に描くというのは「才能」が必要だ。学ぶばかりの画学生がやって大したことが出来るかどうか考えもせずにクロッキーに何やら才能を磨く効果があると考えるのは軽率でしかない。

ミケランジェロが素早く描いたスケッチがあるが、天才でしかも多くを経験して磨かれた感性の持ち主が描けば、クロッキーも様になるが、画学生のクロッキーは時間の無駄である。西洋美術館に在職中に芸大生に頼まれて油彩画科大学院の院生が貯めたクロッキーを見て欲しいというから芸大に出向いたら、なんとクロッキー帖10冊を見せられた。しかし私はその中の一冊を選んで他は見なかった。そして一言、これだけに費やした時間を思えば、一時間で一枚のデッサンを真剣に描きつくすのが大事だと伝えた。なんせ下手糞だったのだ。院を終了後、画家として食っていくというから、「そりゃ無理だろう」というと「芸大卒で何とかなる」というのである。こういう手合いのために、同じ上野にあるとはいえ、わざわざ芸大に出向く値打ちはなかった。

兎に角、対象物を見て描く場合、10分良く観察して1分描くぐらいでなくてはいけない。つまり何をどうするという判断力が必要で、クロッキーを100万回やっても無駄だと言いたい。