河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

そろそろ書かねばならない(備忘録Ⅱ)加筆あり

2023-09-11 10:40:30 | 絵画

思い出せば書ききれないほどいろんなことが出てくる。昨日何を食べたか思い出せないのに・・・。やはりキツかった思い出の他に楽しかったことも思い出す。私は週に一回鍋を焦がすので、医者から「認知症の入り口近くにいる」と気を付けるように言われているが、意外と昔のことがたくさん思い出されるから、これは本物の認知症予防になるかも・・・と。

 

ベルリンで・・・

ベルリンはニュールンベルグと変わらぬほど冬が寒かった。ニュールンベルグでも朝、博物館に出かけるのに氷点下20度くらいで、着ているものもフードはついていても、ペラペラのアーミーコートで、中央駅のホーム下の通路を歩くにも、風で吹き曝しの道で今日でいう運動靴が凍るようであった。博物館の修復所は朝8時に開門するから、時間通りにいかないと凍えた。

ベルリンが当時東西に分かれて、丸い市が半分にされ、周囲は鉄条網と幅20mの地雷原で囲われていた。この町に入るにはフランクフルトから鉄道で東ドイツに入るか、飛行機でやはりフランクフルトから西ベルリンの空港に入った。

実はベルリンに向かう前にベルリン自由大学(かつてのフンボルト大学)に留学していた日本人から、ベルリン在住の日本人を紹介されていて、そこにまず世話になることになっていた。その人物はベルリンの日本人は皆知っているようなクナイぺ(ジンギスカンという名の若者向け居酒屋)を経営していた。夜中の2時3時にまでオープンしているから、ビールに和風鶏唐揚げで大盛況で、日本人の若者も多く世話になって、労働許可も取ってもらっていた。自宅の方にも絶えず居候がいて、私もその一人となった。

そこで厄介になりながら、新聞広告で下宿先を見つけた。ダーレムに近い西ベルリンの南部に位置するツェーレンドルフという地区の個人宅の地下室で、三人が下宿住まいであった。鉄条網の国境から200メートルくらいの所にある住宅であった。ツェーレンドルフにはアメリカ陸軍の基地があった。この付近では一般道を家ほどの大きさの戦車が時速40kmくらいで目の前を走ったりする。当時は東西冷戦真っただ中で、チェコスロバキアやポーランドがソ連の支配下で民主化運動が始まっていたので、実はベルリンは東ドイツ軍(とは言ってもソ連軍の戦車基地が何千台もの戦車を駐屯させていた)の侵攻があると噂されると、皆一斉に食料を調達した。スーパーには備蓄用特別価格の塩漬け豚肉のカン詰めが常に並んでいた。西ベルリンは地下鉄やバス交通網が発達しているが、西ベルリンの形から中央から扇状に広がっており、南側のダーレムドルフは地下鉄の終点で、さらにダーレムドルフからツェーレンドルフまではバスでしか行けない。

ダーレムドルフが有名なのは絵画館のみでなく、彫刻館、素描館、東アジア博物館、民俗資料館が併設されていて、市民の行楽や観光の目玉としての役割を果たしていた。近現代美術館は街の中央にあり、ベルリン中央駅のそばにパンダの居る動物園があり、西ベルリンにはご存知のベルリンフィルハーモニーが居て、ベルリン・ドイチェオパー(オペラハウス)があり、閉鎖的な地区でありながら、決して自民に不自由を感じさせないように作られている。

 

そんなベルリンとは露知らず・・・ダーレムドルフの国立絵画館の修復室に出向いた。この絵画館が有名なのはレンブラントが20点、ファン・アイクの小物が2点、、他にフランドル絵画ではメムリンク、ウェイデンなど、デューラーの肖像画、クラナッハなど・・・仲間内にすれば「美術の教科書みたい」という評価だが、私にすれば毎日これらのコレクションに触れられるだけで栄誉を与えられている気持になる。が、絵画館の建物は木造で長い廊下の建物を部屋に区切って使っているようであった。レンブラントの黄金兜の男」もさりげなく飾られていた。しかしドイツ絵画は絵画館の古い入り口から入ってすぐに右の部屋にデューラーやクラナッハなどの有名どころのコレクションが飾られており、オランダ絵画、イタリア絵画なども飾られていた。(現在はこの建物から全てのコレクションは近現代美術館のある街の真ん中に集められている)

修復室はレンブラントが飾られている回廊の上階に、まるで後付けの部屋のごとく作られており、絵画と彫刻修復室が隣り合わせていて、専門が違っても仲間同士の付き合いがあった。彼らは街の住まいの近所に修復が出来るアトリエを構えており、プライベートの仕事を受けていた。公務員の稼ぎよりそっちの方が多かったようだ。彼らの広い付き合いのお蔭で、世間のいろんなことを教わった。

絵画修復室の部長はヘラルド・ピー氏でその下にベアトリクス・グラフ氏(彼女は南ドイツ出身でミュンヘンの南のシュツットガルトの大学院クラスの修復コースで修士を取っている。彼女の修士論文のパステル画についての論文は出版され、パステルに関する重要な文献として歴史に残った)の二人であったが、当然館のコレクション全体の面倒は見れないので、新たに正規採用を一人募集してきたのはブラハート氏のアトリエで先輩であったクローディアだった。クローディアはゲルマン民族博物館の館長の娘であったが、ドイツでは決して実力無しでは地位は確保できない。みんな性格が良かった。私の仕事としてカナレット2点が与えられニス洗浄が主であった。他にイタリア絵画はこれまで修復処置をしたことが無かったので、収蔵庫から面白そうな作品を選んでもらって処置した。

絵画館では私は研修生ではなく「研究生」であった。実はこれが後々問題となり、一年以上長居が出来ないということになって絵画館の修復室を追い出されることになり、隣の彫刻館の研究生に成ったら、すぐに本部のプロイセン文化財団の人事部からクレームがついて「研究生の立場でる者はドイツ人の就職の席を奪う可能性がある」と言われ追われた。まだ勉強が足りなかったので、今度は国立図書館の紙の修復室に研修を求めた。今度は「研究生ではなく研修生」だから問題はなかった。ここでまたとりあえず一年間、洋紙と製本の修復技術を学んだ。とにかく朝8時から夕方5時まで西洋製本、西アジア製本の他、一枚もの(例えばベートーベンの楽譜とか)の修復処置、洗浄、そして製本の基礎を学ぶのに4人の各専門の修復家から呼ばれるままに、走っていき教えられることをメモを取り(この時は下手でもドイツ語だった)3cmの厚さによるメモ帳はびっしりと文字と略図で一杯となった。この時は財団に邪魔されなかったので思いい切り勉強できた。いつしか図書館内部で日本人の修復家見習いがいることが知れ渡って、日本の文化財研究所などとの交流事業を行いたいと、修復やコレクションの保存全般を取り仕切る部長に呼ばれて、アジア部門の部長(女性で日本語も話す)と修復部長の他一名と私の5名の会議・・・・それぞれプロジェクト案など出して・・・最期にまとめとして取り仕切り議長役の部長が各自述べたことを子細の漏れなく一つ一つまとめて見せたのには驚いた。議長というのはこういうものか・・・。

他に日本の表具に使われる「古糊」を手に入れてほしいという要望があって、東京文化財研究所を通して、東京一軒、京都二軒、山形一軒の国宝表具修理からサンプルを取り寄せることが出来た。その荷物の中に「とろろあおい」という紙すきに用いる植物の根から採る糊がその「根」が送られてきて・・・ビニール袋の中でそのどろどろ状態になっていて・・・・税関が受取人である私を呼び出した。宛名住所は国立図書館修復部であるから、一応犯罪者ではなかったがきつい扱いを受けた。なんせ古糊も銀正麩(ぎんじょうふ)と呼ばれる小麦粉からでんぷんを取り出したものを煮て10年間カメに入れて腐らせたもの・・・・要するにカビや酵母菌のような生物によって分解された「糊」だと言っても・・・そんなものヨーロッパの文化にはない代物。なんじゃこれ・・・とお咎め2時間に及び私も閉口した。日本では笑い話で。

 

この頃、隣のポーランドで労働組合の連帯がゼネストを実施し、政権による戒厳令がしかれ、西ベルリンは国境付近の道路には戦車が繰り出して、砲塔を斜めに国境フェンスに向けて・・・当日氷点下20度を下回っているのに、暖房無しの戦車のハッチを開けて黒人の兵隊が周りを見回していたのが忘れられない。この町には長くはいられないと思った次第。このころ、ジンギスカンの佐藤氏の所に厄介になっていたベルリン自由大学でドイツ文学を学んでいたアメリカ人のマリリンと知り合った。この女性とは今なお腐れ縁で付き合っている。お互いじいとばあになったが、個人主義の意思を尊重して結婚には至らず、ずっと友達で数年前に浜田の家に遊びに来た。寒いベルリンで知り合ったが、彼女と二人で道を歩いていたときに前を歩く老婆を見て彼女は「こういうのを見るとお尻を蹴りたくなる」と突然言うから「それはいけんでしょう」と言ったら、彼女は「貴方は私のことを一生分からない」と言って怒ったのが腐れ縁の元になった。確かに私は「どうして?」とは尋ねずに「いけんでしょう」と言ってしまったのだから。「縁」が切れる発言をしたのです。どんなことも相手が何故そう考えるのか尋ねる必要がある。さもなければ相手を無視したと同じになる。彼女はアメリカ人だがドイツに居て私は「ドイツの論理的合理主義」を学ぶ一助になったのだから、今でも感謝している。日本人がすぐに反応する集団の価値観は西洋では通用しません。個人個人の生き方を尊重する個人主義を学ぶことで、ベルリンでの生活は豊かになったのです。

日本では個人主義を利己主義や自己中心主義と混同する人が居て閉口する。個人主義は「個人の人権、考え方、生き方を尊重すること」であるが「自己責任」がしっかりと求められており、行動や言動には厳しく責任を負うのがドイツ流だった。自民党の憲法改正論者の中に「日本には最近個人主義が蔓延しているから、憲法が保障する人権の中の自由を制限すべき」と言った者が居て呆れた。この日本で個人主義が一度たりとも主張されてこなかった。権力や村社会が個人を無視してきたのだ。「郷に入れば郷に従え」という言葉は明らかに個人を無視している。

個人主義がどの様なものか知らず、人権を制限する憲法改正を望むとか・・・安倍晋三が唱えていた「伝統的家族主義」や「美しい日本」の日本会議の理念が習近平やプーチンと変わらぬ考えを権力者は持ってしまう・・・・支配による優越感を感じさせるだけ。

未だに小中学生から高校生まで制服を着せて教育をすることで「個人性」を侵害し、価値観も集団化させガラパゴス化している社会を気が付かないとは・・・・優れた人物を誕生させない国として先が見えないと言われているだろう。

 

9年近くに及んだ欧州留学はベルリンで幕を閉じた。下宿を引き払って最後はマリリンの下宿から荷物一つで帰国の途についた。最も安い航空券は東ベルリンのオストハーフェンからモスクワ経由のアエロフロートの小型のジョット機で・・・・モスクワ直前で下降に入ってから急に左旋回しそのまま機が水平になると同時に着陸した・・・・機長はソ連の空軍パイロットだったそうだ。モスクワ空港で大きな機に乗り換えるのに5時間待たされた。待合室の空いてるテーブルに座った時、目の前で赤いシャンパンを飲むドイツ人に遭った。彼はなんとツアイス・イエナの東京支店長でなかなかの紳士でいろんな話をする中で、ゲルマン民族博物館の修復室では一人一台のツアイスの手術用顕微鏡を使って、記録もツアイスのカメラで重宝していた話をしたら・・・東のツアイス・イエナは戦後同じ会社が東西に分断されて出来た会社だと・・・・レンズの質は誇れると・・・東京に帰ってからパンフレットを送ってもらった。当時日本ではオリンパスが手術用顕微鏡を作っていたが・・・・それはツアイス・イエナの方がレベルは上だった。

東京成田に着いたら、なんと私の荷物が行方不明でまだモスクワにあるらしいという・・・やっと荷物が出てきたら、ベルリンで友人からもらったポルノ雑誌12冊を禁制品として没収されていた。税関が電話をかけてきて説明するので「それあんたたち、仲間内で見て楽しむのだろう」と言ってやったら「いえーそんなことはしません」と言うから「知っているぞー!!」と念押しして諦めた。

 

東京で、に続く