寝る時間になっても、つい思いだし、怒りがこみあげて眠れない。
金子勇という東大の研究者が京都府警に逮捕されて罪をねつ造された。冤罪だ。彼は当時世界で最も先端を行くWinnyというソフトウェアを開発して無料で他人に使わせた。ある二人が犯罪にかかわる事に使ったために金子氏が京都府警に逮捕されたのだ。詳しい話はネットで検索して欲しい。要するに共犯として扱われて逮捕され拘留されて、長い間研究者として最も大事な時間を無駄に過ごさせられた。「人殺しに包丁が使われたら包丁を作った者が悪い」とされた事件で、当然無罪となったが、何故、京都府警はこのようなバカげた権力を用いて、「当時、わが国で最も先進した科学者の業績を無駄にした」のか。もし彼の才能がより発展性のある時間に用いられていたら、この国のIT技術は多大な進歩をしただろうと言われているが。
運命というのは個人の人生に全く不幸な結果をもたらすことがある。姓名判断というのを否定する人にはどうでもいいだろうが、中国三千年の歴史の一つに四柱推命というのがあるが、人に係わることの統計結果によって判断する方法論だ。これによると金子氏の名前の総画(生命、名前の画数の合計)によると「20画」で、「或る時、人生で大業を成し遂げても、一夜にして無にさせられる」と出ている。そんなことが信じられるか!!??という人は自身の周辺にこのような扱いを受けた者が居ないか調べてみて欲しい。
実は今日の話は「眠れない」話で、自分に降りかかった事件について書くことにする。
書くことで、もし少しでも心に安らぎが得られれば幸いである。
私は1995年の1月17日に起きた阪神淡路大震災の時、すぐにロサンゼルスのポール・ゲッティ美術館からファックスがブリヂストン美術館の田中千秋の所に入った。ゲッティ美術館のジェリー・ポダーニィから「地震災害の文化財救援活動を準備している」と「災害救援活動の専門家も連れて行く」との連絡だ。活動費用はゲッティ持ちだと。この行動の速さは、初めての私は感動した。「腰を上げて自分にできることをしなくては」と思い切って、あちこちに連絡を入れて、仲間を集めて計画を立てた。その時すぐには出かけられなかった・・・・多くの方が亡くなっていて、そこに入るには被災した美術館、博物館との連絡も必要で・・・宿をどうするかも選択しなければならなかった。まずは斥候を送って状況を確認して、出発の日取りを決めた。そして関係官庁として文化庁に「文化庁災害派遣」を行うかどうか打診した。なんと即返事は「行かない」であったが「じゃ結構!!我われだけで行く」と返事して行動開始した。東名高速道路を車で・・・・公用車は無い・・・持ち出しの車3台に7人、私のタウンエースには修復処置の道具、梱包材などを積んで夜10時ごろ上野公園を出発。あいにくの雪で夜中の2時ごろ東名名古屋の手前で降ろされて下道を走り、岐阜羽島でようやく東名に戻った。中国道の宝塚手前で高速を降りて、下道を神戸に向かう。三宮に着いたのは朝の7時頃であったろう。
訪問地の第一は兵庫県立近代美術館、次は神戸市立博物館とすでに連絡が入れてあった。当然ながら展示室の作品は殆ど収蔵庫に収納されて、我々のように遅くに来た者に被害の状況が説明できるように「サンプル」が置かれていた。神戸市立博物館にあっては昼飯の時間になって「お茶」を出されて・・・・何をしに来たのか・・・・お茶を飲みに来たのか・・・と自己嫌悪に陥ってしまった。これでは「議員の見物旅行」と変わらぬ事態で、初日の工程が殆ど「無駄」と思えた。その日は吉川の女子大の寮に泊めてもらって・・・ここでも「歓待!!???」されて吉川牛のすき焼きでもてなされて・・・もう、立場がなくなっていたが、ようやく翌日の訪問に三宮であったか市立美術館で処置が必要な美術品と出会って、来たかいがあったと少し気も楽になった。
要するに地震災害が起きてから救援活動は必要であるが、その前に災害対策が万全であることが大事で、その対策方法を日本中の文化財を持っている機関や個人に至るまで「理解と対策」を徹底する活動がまず先であると思う。
多くの美術品は展示中か収蔵中であるので、その方法が実行力を持っているように、被害の教訓を生かしていこうと考えを変えた。
欧米では「美術品を壊すのは学芸員である」という言葉がある。これは美術品の取り扱いを左右する指示を出すのが多くの場合学芸員であるからである。修復家やレジストラーの配慮が及ばない処で、貸し出したり動かしたりして壊す可能性が高いという意味である。特に学芸員の権力が強いフランスの組織では最悪な状況を作ってきた。保存修復を担当する専門家は組織外部に置かれて、美術館内で環境から保存対策をしなければならないのに、具体的な指示が出せる保存修復家が居ないで、修復家は「壊れてから直す修理屋」扱いであった。今は改善したであろうか?
これに近いのが我が国であって、美術館の組織の形態は明治以降、フランスを真似て出来てきたから、学芸員は基本的な知識や能力もないうちに「権力」だけは付けてもらったのである。
私がドイツから帰国した1982年に西洋美術館を訪ねたときに「保存修復に関する小論文」を提出するように言われたが、その年に西洋美術館は修復家を一名採用するための「増員要求」を文化庁に提出していた・・・・が採用したのはドイツ美術史が専門の学芸員で・・・この時修復家を一名採用したことになっていた。
そこで、実際に修復家を採用できるまで10年かかってしまう。1991年(よわい40歳)に私は国立美術館・博物館で初めての保存修復家として主任研究官で採用されて朝日新聞にも人事紹介された。この時の館長は文部次官であった三角哲夫氏で「河口さん3年でいいからこの美術館に保存修復の線路を引いてくれ」と言われた。実際はそんな簡単なものではなく前途多難であった。
なんせ周囲は「保存修復」が何か知らない学芸員、庶務課員ばかりで、最初から「君は絵が壊れた時、修復だけしていればいいんだよ」と言われてカチンと来て、先輩と口論になった。
この先輩は学芸課が、これまで慣習としてきた「分業体制」から「専業体制」に移行する第一義として、保存修復担当者を雇ったということを理解していなかった。そもそも保存修復とは何かが認識されていない。ロンドン大学では美術館・博物館の学芸員を輩出するだけあって「保存修復・保存科学」についての講座があり、大事な単位になっている。19世紀末には大英博物館やベルリン国立博物館群には保存修復の科学的な理念から部門として確立していたから、欧州の大戦で多くの貴重な文化財が戦災からの逃れられるように対応が出来たのだ。
だが国立西洋美術館の学芸課を筆頭に全国の学芸課の役割は雑務を分業して、せいぜい他人が書いた文献資料を読んでまとめる程度の業務が主となっていた。だから展示室に作品を展示しても、そこから美術史上の発見をするような接し方はしない。そもそも彼らが大学で美術史や美学を専攻しても、それを教える教授たちが根本的に原点である美術品を観察し研究する方法を学んでおらず、結局、文献資料を読んで語る日常が出来あがってしまった。それだけでは美術館業務はなり行かないから、やりたくもないけど分業で作品登録管理、保存管理、資料係(図書)、広報などを数年周りで分業しているのがこの国の美術館・博物館の実際で、いつまでも素人的で専門性の厳しさや誠実さがない。欧米(フランスを除いて)では専業が進み、館長はビジネスマネージングが求められるので、日本の様に現場無視の官僚的な考えで大学の教授などを経験した者ではない。美術館運営の経済力を実行できる能力が求められている。美術史系はむしろ副館長を務め、場合によっては保存修復担当者が副館長になったりした例もある。
特に近現代美術を専攻した人たちはもっと破壊的であった。19世紀末にボードレールやオスカー・ワイルドのような評論家がでて、「作品批評は自分の詩や作品のように書くべきだ」と述べて、これを規範のように信じ込んだ学芸員や評論家によって「文学的」と称される批評やエッセイが溢れ出たのである。制作者の意図や実際とは隔絶して、嘘であっても批評する者の感性(?)でまったく別の「無いものを在るが如きにする」虚構が作られて、読者は「そういうものか」と観念的世界に迷い込んでいる。
まあフランス人の個人主義は、多くは自己中心主義で自分のためなら「うそ」も平気でつき、ドイツの個人主義とはかなり違う。フランスでは個人が何をどのように考えようか自由(?)であり個人のレベルにとどまるが、これが組織で行われると権威主義や階級主義に代わって実際が無視される事多々あり。これがドイツなら個人主義も曖昧では済まない。個人のレベルなら許されても、組織となると「論理的合理主義」でなければ無視されるか批判の的となる。それとドクター主義やマイスター制度で組織を作ろうとするのは現場主義で、各専門家を呼んで「議論」するのを大切にするのは本質を大事にする国民性のせいだろう。
西洋美術館の先輩で「美術史研究者」として接することが出来た人物は希少であるが、イタリア美術の古典の文献の翻訳などに尽力された生田圓(いくたまどか)氏は人生途上に於いて御不幸があって亡くなられて大変残念であった。末永く史学の分野で貢献されるはずであって悔しい。
彼のような研究者といえる人材が国立西洋美術館に集まっていると考えるのは間違いである。西洋美術が専門でも、専攻分野の言語で書く「国際論文」を書く者がいなかった。これは教授からして大学教育で語学力を堪能なレベルに鍛える認識が出来あがっていないからであるし、そもそも美術作品から出発せずに研究の原点が欠如し、西欧の研究者が「参考論文として採用するレベル」から無縁であるからだ。しかし欧米では違った態度で美術作品と接する在り方が伝統的に出来あがっていた。
あるとき学部を芸大の都市デザインがなにかを専攻した者が私の修復室の図書文献整理のアルバイトに来たが、仕事が終わったからと時間中にパソコン付録ゲームをやって遊んでいた者だが・・・・いつの間にか東大の美術史の大学院生となり、イタリア美術史を専攻したとして、元館長の高階秀爾氏の押しで西洋美術館の求人に応募し学芸課員に採用された。しかし彼が初年の西洋美術館紀要に掲載した「イタリア絵画作品の調査」の中身は学部生のレベルで、美術史専門でもない私にボロクソに言われるほどで、何が言いたかったのか焦点が理解できなかった。後に彼は私が前庭の彫刻免振化工事に従事している時に、学芸会議の最中に突如「免震って科学的に説明できるのですか?」と言い出して、会議中全員が「血の気が引けた」状態になり、横にいた保存科学の担当者は私の方を見てにやけ笑いをする始末であった。まあ少し周辺空気が読めないKYであっても我慢はするが、その後もロンドンの美大で洋紙の修復を学び、ホワイトチャペルの大学院を修了し、ワシントンのLibrary of Conguress(国会図書館)で採用され3年を過ごしてきた紙の修復家の女性を私の研究室で短期採用した時に「あんたー臨時雇いだから」と無礼な発言でパワハラで接して彼女を泣かした。この男より彼女の経歴の方が遥かに優れていて、足元にも及ばなかったレベルであることが理解できない者である彼が学芸課長になった時には昇進制度の出鱈目さに閉口したが。
学芸課は私が採用された後、美術館教育部門、情報資料部門と分業化を進めて、そもそも教育普及活動と言えるものは学芸員にとってたまに開催する企画展覧会であるが、共催展のスケールであれば学芸員が自主的に企画できるレベルではなく、欧米の美術史専門家のコーディネーターが居て、それに従う形で行う業務だが、館の費用で自主的に行う「自主展」では企画内容を明確にして、日頃の研究成果を見せるまたとない機会であるが、これに能力が足りる人材は少なかった。
私が恵まれたのは京都大学の助手であった中村俊春と共に行った研究調査の小企画展、リューベンスの《ソドムを去るロトとその家族》ではメトロポリタン美術館の学芸員に「日本でやるには10年早い企画」と言わせた画期的な中村のアイデアであった。マイアミリングリング美術館から原作とメトロポリタン美術館から下描きデッサンとまるでゲリラの様に科学調査の承諾を得て、学術的な視点で、X線撮影、赤外線、紫外線撮影、果ては顔料分できまで許可を得て仕込んだ小企画研究調査展であった。その中で西洋美術館が所蔵してきた《ソドムを去るロトとその家族》は工房作以前のコピーの可能性は事前の公開の結果が見込まれていて、この企画展の結果はリューベンスの研究者をメトロからとアントワープのリューベンス研究所から招聘しシンポジュウムを英語で開催して調査報告は後日出版した。この企画展は日本経済新聞の記者がいち早く新聞に掲載してくれて嬉しかったが、なんと一年後にNHKの科学部の記者近藤が「最新の科学調査の傾向」を番組にしたいと言って・・・これを7時の特ダネニュースとして放送し、どえらいスキャンダルにしてくれた。こっちはかんかんであったが、「文春」にでも事実関係を公開していやろうかと思ったが、後日「謝罪のような謝罪でないような挨拶」に科学部長やディレクターと近藤当人が館を訪れて・・・もめ事が嫌いな高階秀爾館長と馬鹿な庶務課長の手打ちで・・・終わらせてしまった。NHKの全員をボコボコにして「文春」に顛末を書いてもらえば良かったと・・・・今になって反省している。
中村俊春の在籍した間、彼は学芸課の「いい加減な態度」にいつも怒っていて、私は彼を頻繁に仲御徒町界隈に誘った。よく焼き肉屋で飲んだが・・・彼は大声で怒りがこみあげて話すので・・・店のお上に「ちょっと、あんたたち喧嘩ばかり!!よしなさいよ!!」と怒られたが。「いやー喧嘩じゃありません、こいつはフラストレーションが溜まっているので・・・」と言い訳したもので。彼の才能は語学だけでなく、見方、考え方に鋭い感性があって、西洋美術館の学芸課では物足りなかったのだ。しばらくして京都大学の古巣に呼び戻されて助教授として活躍し、私も京大で研究会に参加するなど、彼と過ごした時間は楽しかった。しかし才ある者の命は短く・・・教授になって活躍半ばにして病死した。「中村をしのぶ会」をするから京都まで来てくれと言われたが・・・・涙が出て止まらないから・・・と断った。何故バカばかり生き延びて、はみ出すほどに才能があるものが居なくなるのか。
私は西洋美術館でまるで「はみ出し者」として扱われ・・・・自分たちと同じ考え方をしない者は排除しても良いと考える集団がいることは、この国の精神性の幼稚さを感じさせる。美術館に「専門バカ」が居ても良い。しかし専門性もなくやたら自尊心で地位にしがみつく無能な人材は居てはいけない。