Iターンは見知らぬ土地に住居を構えてそこで生活をすることですが、若い人や退職後の人たちに流行っているようですが、はたして幸福かどうか?
かつて「Iターンの美術」と題して書きましたが、今日はそれと違って「良かったかどうか」について書きたいと思います。
見知らぬ土地というのは「海外生活をする」のとどう違うかと言えば、そこで生きようとする意欲が違うことが揚げられます。外国の町に引っ越したらまず何をします?もう先に経済的に見合う住居を見つけて、少しの家具と荷物もそろったとして、まず何をしますか?私は地図を買って、家の近くの状況を地図で俯瞰(ふかん:上から眺めること)しました。そして近所に顔見世のため、言語が出来なくても一番近い「八百屋」に行き、食料を買いました。ブリュッセルの場合、まずフランスパンと豚のもも肉の湯でハム(これは一枚がやたら大きく、日本のハムなどと比べ物にならないほど美味しかったです)これにサラダ菜を買えばサンドイッチですが、塩と砂糖、それにカリタ珈琲のセット一式、フランス語は八百屋に行く前に、どういう風にしゃべるか内容をあらかじめメモ紙にかいて持参。おばさんは微笑んで「何でもいいっから言ってごらん」と言ってくれました。それからフランス語の練習の為にこの八百屋に通いました。こうした始まりから、とにかく毎日歩き回って町の様子を知りました。もちろん美術アカデミーの場所もいつ開校されるのかを確かめて、市役所の滞在許可の受付で、ビザ取得の登録の手順を尋ねました。こうして恐る恐るブリュッセルの街に溶け込んでいきました。という過去が、知らない土地に入り込む若さゆえのエネルギーがあったけど。
西洋美術館を定年退職後、浜田に引っ越しましたが、理由は東京にいれば住民税、固定資産税で生活費が持たないことと、いずれにせよ首都直下大地震が来ると思い込んでいたから、東京を離れることは定年前からの計画に入っていて、島根紺浜田市の松江地方裁判所競売物件情報をあさって、現在の家を競り落とした。字書面積は大きく00坪、腐った工場と築26年の住居(今は30年を超えて、床も抜けかけている)を購入。まあ全くこの町を知らなかった訳ではなく、父親が生きている間 は東京から岩国に通うのに途中下車して「ヒラマサ釣」に熱中していた。その時は車に寝泊まりしていて、漁協の銭湯に行き、位置の駅の食堂で肉うどんをよく食べた。肉うどんは故郷のご馳走で、子供のころの記憶がよみがえる。山口県と島根県との方言というと、おおざっぱすぎる。方言はやはり文化圏で区切ることになるだろう。ここ浜田は島年県では石見と呼ばれる地方で、その比較にされるのは出雲地方で松江、出雲がひとくくりだ。出雲地方の者は石見地方を田舎者とさげすむ。浜田トヨペットでハイエースを買おうとしたら、出雲出身の店長が「あんたは一見さんだから手付金50万円を前払いしてくれ」といったので、私は激怒!!してわざわざ山口のいとこに頼んで、山口ネッツでハイエースと同じ型のレジアスエースという車を購入した。車をトラックに積んで途中の益田市で車検登録して配達してくれた。つまらぬことで出雲と石見の対立を学ばされて、県庁のある松江が120kmあると思うと、嫌な県だなあと思うようになった。ちなみに山口まで120kmで、広島まで100kmだから、本当は広島県に併合して欲しい。昔から津和野や益田は萩文化圏で雪舟が益田に庭造りや水墨画を残していることを考えると、山口が直ぐそこにあると皆感じていたに違いない。
徳川が外様の毛利を監視するためにを松江からこの浜田にまで松平を置いたのは、この浜田をへき地にしてしまったに違いない。この浜田には松平の殿様の城があったが、長州征伐で最前線になって、大村益次郎の軍隊に攻められ、城や町に火をつけて美作(岡山県の中国山地に位置する)の親戚を頼って逃げた。この浜田が如何にも文化圏として中途半端な気がするのは、古いものが残っていなくて、この国の木造建築の最盛期の大正期の旅館とかを崩して、つまらない鉄筋コンクリートの建物に変わってしまっているは、この土地に愛着を感じさせない。地方自治体では10年位前に市町村統合が行われて、土地面積がやたら大きくなっても、人口が浜田市は4万人少々とさえないが、市議会銀の数は28人になり、選挙で改選が行われるたびに3人づつ減らしているが、未だに23人いる。市の公報で議会報告がされても、彼らの資質を疑うような失業率応答がされているのにあきれる。現市長は前の市長の参事を務めていた私と同じ年の者で、元東大出の銀行員で、疲弊する地方に何か生き残りのビジネスでも提案するかと思いきや、町に火をつけて逃げた松平の城を記念する資料館を作ろうとするとか、石見神楽の記念館を作ろうと提案したり、無茶苦茶と思える。しかも彼は横浜から通うサラリーマンなのだ。やるに事欠いて市内にある県立大学の講座に地方を活性化させる科目を置くように県知事に頼みに行った。なんと厚顔無恥か。「てめえの仕事だろうが!!学生にやらせるのか!!」と叫んでみた。
私がこの町に溶け込めなくて、いつも外国人だと感じるのは、ブリュセルからニュールンベルグ、ベルリンと移り住んで生活したころと全く変わりなく感じる。その問いの状況、町の歴史など知っても何もならない。そこに滞在する目的があれば、それさえ満たせばよい。うむ・・・真鯛を釣りに来たのじゃなかったかい?・・・と言われそうだが、それがなかなか上手くいかないから、こういう文章を書いているんだ。
きっと私と違って最近Iターンで島根に来る人達は農業を生活の一部として考えてくる人が多い。彼らが意外と定着しているのは、周辺の人間関係でも、共感できるかどうかを考えなくても済むように、家族と一緒に来るからだろう。こうした外国と同じ環境に近いものがある場合、情緒をいやしてくれる、心の支えとなる家族は必要だ。まあ私には猫が沢山いるから・・・・。話し相手にはならないが・・・てめら、学校行って勉強して来い!!授業料出してやる!!・・・と。毎回同じことを言っている。とりあえずの家族だ。
Iターンには精神的な支えが必要なことは確かでしょう。
精神的満足を求める前には、田舎の町だからきっと物価が安いとか、自然がいっぱいあって気持ちよく過ごせるだろうとか思うのは無理があった。スーパーの品物の値段は同じか、むしろ高い。安売りの量販店で食料、衣料品などを買うと、要するに質が悪いのに気が付く。ここは漁業の町でも魚が高い。東京の方が、種類も豊富で値段も安いことに気が付いたころには手遅れ。ただ住宅費は安い。当然なことに周辺環境が都会と田舎町ではいろんなものが手に入らぬから不便で、そのため安いのであって、住宅費が安いと喜んではいけない。年寄りで年金暮らしが厳しいから都会を後にすると言ったとき、「世捨て人」として、物の多くは望まないということが条件だ。ちょっと修復の仕事や絵を描くのにもエティルアルコール99%が欲しくても簡単に手に入らない。だからもう仕事はしないと決心しなければならない。だと、不満が残ってしまう。
この田舎町で東京の常識を求めてはいけない。ここにある国立の医療センターはやぶ医者ばかりで、特に外科は救急で「死にかけていないのだったら、連れてくるな!!」というから・・・。で、むかし沖の波止に釣りに出かけて、大けがで医療センターの前身である「国立浜田病院」に行ったら、4日入院、しかし骨折していないし、内出血も大丈夫だと、帰って良し・・・と言うことで東京に帰った(当時、父親の住む岩国と東京の往復の間に、浜田でヒラマサ釣りをやっていて事故に遭った)がやはり痛くて歩けないから、近所の整形外科に行ったら「骨が折れてますよ」と言われて、ショックだった。実際に浜田の人たちは「大病」したら、広島の病院に行くのだそうだ。それでないと「早死にする」という。まあ言い方を変えると「殺される」に近いかも。Iターンで来るものは覚悟せえ!!ない物ねだりは意見茶!!
そうそう、いつも夏目漱石の小説の一節を・・・・・知に働けば角が立つ、情にさおさせば流される、とかくこの世は住みにくい。ふと、何処へ行っても同じだと思ったとき「詩」が生まれる・・・。で、この詩だよね。それは絵の中に求めているけど・・・。
若いころは何も怖くなくて、リュック一つでヨーロッパに出かけたんだがね。年を取ってから、財布に現金やカードを一杯入れておかないと行けない。だからシャルルドゴール空港で財布をすられてしまったな。なんじゃ!!
では。