平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




五条大橋袂の植え込みにある「扇塚」は、
「扇発祥の地」を記念して建立されたものです。
五条橋西詰には、かつて御影堂と呼ばれた新善光寺がありました。
周辺には塔頭が多く存在し、寺僧たちが副業として
「御影堂扇」を作り販売していました。


五条大橋の西北詰にある扇塚です。

五条大橋の西側から撮影
扇塚の記 
扇 は平安時代 の初期この地に初めて作られたものである

ここ五條大橋 の畔は時宗御影堂 の遺跡であり 平敦盛 没後その室
本寺祐寛上人によって得度し蓮華院 尼と称し
寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている

この由緒により扇工この地に集まり永く扇の名産地として
広く海外にまでも喧伝されるに至った
いまこの由来を記してこれを顕彰する

昭和三十五年三月十五日 京都市長 高山 義三

五条大橋の上から扇塚を見ると


江戸時代初期に著された京都観光案内書『京羽二重』によると、
平安時代末に平敦盛が戦死した後、敦盛の妻が出家し御影堂に入り、 
寺僧と共に作りはじめた衵(あこめ)扇(貴婦人の正装用の檜扇)が、
宮中にも献上されて「御影堂扇」として有名になり、その後、
この界隈に多くの扇工が集まり扇子の製作を行った。と紹介されています。
江戸時代後期に刊行された『拾遺都名所図会』「御影堂扇折」の挿絵には、
女性らが扇を作り、僧侶が武士を相手に商談する様子が描かれています

『拾遺都名所図会』巻之一平安城御影堂扇折の図
 国際日本文化センターデーターベースより転載。

 新善光寺は、『山城名所誌』によれば、「嵯峨天皇の檀林皇后が造営、
初めは真言宗で東洞院三本木にあり、善光寺(長野市)の本尊を模した像と
弘法大師自作の像を安置し、御影堂と呼ばれていましたが、再興の王阿上人が、
時宗に帰依し一遍上人を招いて念仏三昧の道場にした。」と記されています。
寺地は転々とし、応永二十八年(1421)、六条佐女牛(さめうし)に移され、
天正十五年豊臣秀吉の命で今の地に移され、第二次世界大戦中の
五条通り拡張に伴い、滋賀県長浜市に移転しました。
五条通りの南側に御影堂町が残っているのはその名残です。

 『アクセス』
「扇塚」五条大橋西詰北側
 「新善光寺跡」京都市下京区御影堂町(五条大橋西詰)
市バス「河原町五条」下車東へ徒歩約2
京阪電車「清水五条駅」下車西へ徒歩約2分  
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 阿部泉「京都名所図会」つくばね会 
京都史跡見学会
「京都21コース洛中散歩」山川出版社

 



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