平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



寿永3年(1184年)2月7日に一の谷で討たれた平家一門の首級は、
5日後、都に運ばれて鴨川の六条河原で朝廷の役人に引き渡されました。
主だった平家方の戦死者は、越前三位通盛、薩摩守忠度、若狭守経俊、
武蔵守知章、大夫敦盛、業盛、但馬前司経正、能登守教経、備中守師盛、
越中前司盛俊以上十人、それに本三位中将重衡が生け捕りにされました。

六条河原は、現在の五条大橋より南、正面橋辺りまでの鴨川の河原をいい、
罪人やその首級が都に入る際には、検非違使が六条河原に出向き、
武将の手より身柄や首を受け取るのが通例とされました。
処刑場としても使われ、保元の乱では、平忠正(清盛の叔父)が、
平治の乱では、公卿であった藤原信頼もこの河原で処刑されました。
平安時代、鴨川はひとたび大雨ともなれば度々氾濫しましたが、
普段は流れが浅く中州もあり、当時よく利用されていた渋谷越が
六条河原に通じ、葬送の地の鳥辺野が近くにあったことも関連し、
人目につきやすい公開の処刑場として適当な場所だったと思われます。


五条大橋の畔にある京阪電車清水五条駅

清水五条駅の南側から六条河原へ下りて撮影しました。

京に残っていた一門の縁者は、生きた心地もしませんでした。中でも、
大覚寺の北辺に隠れ住んでいた小松三位中将維盛(重盛の長男)の北の方は、
「一の谷合戦で一門の人々が多く討たれ、三位の中将という人が一人、
捕虜になったらしい」という噂を聞き、生け捕られたのは
夫に違いないと思い伏せっていました。女房が「三位中将というのは、
本三位中将重衡(清盛の五男)様のことのようです。」と伝えると
「それでは夫は討たれた首の中にいるのではないか。」とますます不安になります。
維盛から六代御前を託されていた斎藤五、斎藤六が、こっそり様子を探りに行き、
主人の首はないと見定めて大切な情報を仕入れてきました。
斎藤兄弟は、北陸の篠原合戦で、白髪を染めて義仲軍と戦い、
戦死した斎藤実盛の息子たちです。
「小松殿の公達は、三草山で義経軍に敗れ、船で屋島へ逃れたそうですが、
ご兄弟から一人離れた師盛様だけが一の谷で戦死され、維盛様はご病気で、
今度の合戦には参加されてはいない。と噂する者がいました。」と北の方に報告すると
「それは、きっと私たちを思ってのご病気なのでしょう。」と涙ぐんでしまいます。
維盛の妻は、鹿ケ谷事件の首謀者、藤原成親の娘で、
 二人の間には、六代御前という若君と夜叉御前という姫君がいました。

一方、屋島にいた維盛も家族の身を案じていました。
当時、屋島では、敗戦後の処理に追われていたので、
維盛は都への使いを出しにくかったと思われますが、妻と子供たちそれぞれに、
無事を知らせる手紙を書き、そっと使いの侍に持たせました。
妻には、「幼い子供達を伴われて、さぞや辛いことでしょう。
早く屋島にお迎えしたいとも思うのですが、そなた達には、ここはなお
つらい場所になると思うので、そうもならず…」などと細々と書いて、
 ♪いづくとも知らぬ逢瀬の藻塩草書き置く跡を形見とも見よ
(いつどこでまた逢えることができるかわからない、藻塩草のようにあてどなく漂う
私が書き置いたこの手紙を形見と思ってほしい。)という歌を添え、
幼い子供たちには、それぞれに「すぐ迎えに行くから。」と記します。
「どうして今まで迎えては下さらなかったのですか、早く迎えに来てください。
お父上が恋しい、恋しい。」という幼い子供達からの返事を読んだ維盛は、
深い悲しみに襲われ、俗世を捨てて出家しようという気持ちもくじけてしまい、
都に上り、妻子と会ってから自害しよう。と考えるようになりました。

源範頼・義経は、「平家一門の首は、大路を渡し獄門の樹に掛けるべし」と
後白河法皇に申入れましたが、摂政以下、五人の公卿たちは、
「昔から、公卿、大臣の位にのぼった者を都大路に引きまわした例がありません。
特に安徳天皇の外戚として朝廷に仕え、いずれも名のきこえた公達の首を獄門に
かけていいものであろうか。」と反対し、一旦、獄門にはかけないと決定しました。
しかし「平家の者たちは、保元の乱では、祖父為義の仇、
平治の乱では父義朝の敵にあたります。その首を獄門にかけないのであれば、
今後は朝敵と戦えない。」と範頼・義経が法皇に激しく詰め寄り、
彼らに押し切られるかたちで、仕方なく都大路を渡すことにしました。
首にはそれぞれの名前が記された赤札が付けられ、
長い槍刀に突き刺され、六条河原から東洞院の大路を北に渡され、
獄門の樹にかけられました。半年前までは、和歌の上手、
琵琶、笛の名手として都人にその名もよく知られた公達たち、
首渡しを一目見ようと集まった群衆は、その変わり果てた姿を見て、
憐み、悲しみに沈みました。

平安京の獄には、東獄と西獄があり、獄の入口の門のことを獄門といいました。
この時、平家一門の首は、今の京都府庁の西側にあった東獄に晒されました。
辺りを丁子風呂町とよび、中世までは獄門町といいました。
『アクセス』
「五条大橋」京阪電車五条清水駅下車すぐ 市バス河原町五条下車東へ徒歩約2分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
「京都市の地名」平凡社「平安京の風景」文英堂 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館
「京都学への招待」角川書店 上宇都ゆりほ「源平の武将歌人」笠間書院 

 



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