平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




金堂の東北にある大塔は、弘法大師が真言密教の
根本道場として建立したことから根本大塔ともよびます。

清盛の破格の出世の背後には、熊野権現や厳島の神の加護があると
『平家物語』は、くり返し述べています。清盛が保元・平治の乱に勲功を立て、
安芸守を務めていた頃、伊勢湾の安濃津(津市)から海路をとり
熊野参詣の途中、鱸が清盛の船の中に飛び込むという珍事がありました。
先達の修験者が「昔、周の武王の船にもやはり白魚が躍りこみました。
これは熊野権現の示現に間違いありません。お召し上がり下さい。」というので、
精進潔斎しての道すがらですが、その魚を調理させ一族で食べたところ、
以後、平家では吉事が続き、清盛は太政大臣にまで出世、
一族の人々も瞬く間に高い官職に就いていきました。
一門の繁栄は熊野権現のご利益であると「巻1・鱸の事」は伝えています。。

 清盛と安芸の厳島神社を結びつけたのが高野山の大塔でした。
清盛が同じく安芸守であった時、鳥羽院から高野山の大塔を修理せよと命じられ、
6年がかりで修築を終えた後、高野山に登り大塔を拝み、奥の院に参詣すると、
どこからともなく白髪の老僧が現れ、「大塔の修築が終わったことはめでたい。
だが安芸の厳島神社は荒れ果てている。このついでに厳島を修理すれば
汝に高い官位を保障する。」と告げるとかき消すように見えなくなり、
その老僧の立っていたところからは、良いお香の薫りがただよいました。


再建中の中門前の駒札

これは弘法大師に違いないと思われ、ますます尊く思い、
清盛は高野の金堂に曼荼羅を奉納し、西の曼荼羅は絵師常明法印に描かせ、
東の胎蔵界曼荼羅の中央部、大日如来の宝冠には、
清盛自身の頭の血を混ぜて描いたということです。
清盛は都に帰り、さっそく院の御所に参上し、このことを申しあげると、
院も非常に感動され、厳島を修理するよう命じられました。
厳島神社の鳥居を建て替え、社殿を造り替え、
百八十間の廻廊を造り、修理を終えその後、厳島に参詣すると、
角髪(びんずら)を結った天童が現れ、
「私は厳島大明神の使いである。汝この剣で天下を鎮め、
朝廷の守りとなれ。」といって銀の蛭巻をした
小長刀(1m程のそりのない刀)を授けられる夢を見ます。目覚めると、
この夢の通りに枕元に小長刀(こなぎなた)がありました。
そればかりか、大明神が現れ、「高野山で老僧が言った
一門繁栄のことであるが覚えておるか。悪行を行えば子孫までの
繁栄は続かないぞ。」と言って立ち去りました。(巻3・大塔建立の事)

史実における清盛と高野山とのかかわりは、
弘仁十年(819)に弘法大師が建立した大塔は、
久安五年(1149)雷火により焼失、当初、播磨守平忠盛が
再建奉行を務め、清盛はその代官として高野山を訪れました。
父忠盛の死後、清盛がこの事業を引き継ぎ、
保元元年(1156)伽藍再建供養に際し、両界曼荼羅を奉納しました。
この曼荼羅は、「血曼荼羅」と呼ばれて今に伝わっています。

血曼荼羅の画像は霊宝館よりお借りしました。

高野山のシンボル大塔は、昭和12年(1937)再建の鉄筋コンクリート製です。

 高野山は西の大門から東の奥の院に至る東西6㎞の境内地に
123宇の堂塔伽藍や商店が軒を連ねています。
その中心となるのが奥の院と壇上伽藍です。

大門通りの北側の一段高い地域にある壇上伽藍には、
大塔・西塔・金堂・御影堂・不動堂などの主要な建築物が建ち並び、
この一帯は金剛界曼荼羅の中核をなすところといわれています。



東側(右手前)から東塔・三昧堂・大会堂・愛染堂・大塔

壇上伽藍のほぼ中央に位置する金堂

金堂の東、大塔の正面に建つ大塔の鐘

昔、大塔の前にあった桜の木の前で清盛と弘法大師が対面したという
伝説にちなんでこの木を対面桜とよんでいましたが、
今はなく中門の桜の木の前に対面桜の駒札があります。
金堂南の中門は、天保14年(1843)に焼失し、現在再建中です。


弘法大師の持仏堂として建立された御影堂(大塔の手前左)

金堂の西に建つ鳥羽天皇の皇后・美福門院寄進の六角経蔵
『アクセス』
「高野山」和歌山県高野町高野山132
大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車。ケーブルに乗り継いで高野山駅へ

 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス11分 金剛峯寺前下車すぐ
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「日本史の舞台」東京堂出版 「高野山」小学館 「和歌山県の地名」平凡社
別冊太陽「平清盛」平凡社




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