平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




義経が阿波勝浦に上陸し、屋島に逃れた平家を追って小松島市内を
駆け抜けた道は、義経ドリームロードとして整備され、
勢合(せいごう)を起点として勝浦川沿いに佇む
中王子まで続きます。
およそ10キロの道のり
には、案内板や道標が設置され、
義経ゆかりの地名や伝説が残されています。


「源平合戦の元歴二年(1185)二月十八日 源義経は風雨の中を
散りぢりに着いた
軍船をここに集め勢ぞろいの後、屋島に向かう。」(碑文より)

阿波勝浦は現在の小松島市、義経上陸地点は、はっきりしませんが、
JR阿波赤石駅近くに勢合(せいごう)の石碑がたっています。
義経が漂着した船を集めたことからその名がついたといわれています

勢合の碑から義経ドリームロードを進み左折します。

道標に従い進むと、すぐ薄暗い森が見えてきます。
恩山寺への車の通行は不可。

四国のみち、歩き遍路の道です。

森は釈迦庵の跡で、その前に「弦張坂」の説明板があります。

平家方の田口成良が勢力を張る阿波国では、気を休めるわけにはいかなかったようです。

釈迦庵の横手からゆるやかな上り坂が800mほど続きます。

立江寺への道標、歩きへんろの道。

竹林を下って行くと敵がいないと分かって弦を弓から外して巻いたという
「弦巻坂」の説明板があり、傍には花折地蔵が祀られています。(勢合の碑から3、9キロ)





道標に従って坂を下ると牛舎横から車道に出ます。



すぐ先に弘法大師お手植えとも伝えられる「ビランジュ」が茂っています。
ビランジュの名はインドの毘蘭樹にあてたもので、
恩山寺が弘法大師ゆかりの地であることからそうよんでいます。

暖地に自生する常緑の高木で樹皮が次々に剥がれ落ち、
赤褐色の木肌があらわれることから、

ばくちに敗れ衣を剥がれるのに例えてバクチノ木ともいいます。

ここを上った先にあるのが、
四国霊場18番札所・恩山寺(真言宗)
です。

参道入口付近に義経上陸地の碑がたっています。
義経上陸の地の碑
「源平合戦の元歴二年(1185)二月十八日 
義経の軍勢は讃岐(屋島)に逃れた平家を討つため
 折からの暴風に乗じて摂津(大阪)の渡辺の浦より
船を進めこの地に上陸した。」(碑文より)


義経がここに上陸したとすれば、当時、このあたりは
海岸線だったということになります。

現在、この石碑は海岸線からかなり陸地に入った山沿いにあります。

このことについて小松島市役所産業振興課に問い合わせたところ、
次のようなお返事をいただきました。
「地図や文献等では確認できませんでしたが、義経上陸の石碑あたりは、
海岸線だったと伝えられています。
より南方の田野町の
天王社(神社)付近に「白砂」という地名が残っており、
その辺りからずっと海岸であったといわれています。」

義経の上陸地を『平家物語』は阿波勝浦とし、
『源平盛衰記』の諸本の中には、
「はちまあまこの浦(八万尼子の浦)」(勝浦川河口か)とし、
『吾妻鏡』では「椿浦」としています。
椿浦(徳島県阿南市椿泊)は小松島市のずっと南方に位置し、
屋島に進軍するには、遠回りしすぎと思われます。

菱沼一憲氏は義経を道案内した近藤親家が津田島の領主であったことから

「義経の上陸地は津田港である」と推定されています。
しかし上陸地を勝浦川の河口にある津田港(小松島市津田町)とすると、
地元に伝わる伝説と齟齬が生じてしまいます。
義経阿波から屋島へ進軍1   
義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)  
『アクセス』
「勢合の碑」小松島市田野町 JR牟岐線「阿波赤石駅」から徒歩2分
『参考資料』
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年 
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略-その伝説と実像」角川選書、平成17
新定「源平盛衰記」(巻5)新人物往来社、1991
 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、
2008

 



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