平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




「源義経上陸の地」の碑から、のどかな田園風景を眺めながらドリームロードを進むと
八幡神社の扁額が架かる鳥居が見えてきます。



その先にある小高い丘が旗山で、頂上には6.7mの騎馬像としては
日本一の高さを誇る義経像があり、夜はライトアップされています。
上陸した義経勢が勢揃いし、士気を高めるために源氏の白旗を
掲げたことからこの丘を旗山とよぶと伝えられています。



義経の上陸した勝浦は、地形の変化により
今は海岸線が大きく変わっているようです。
小松島市田野・芝生町付近は、現在は陸地ですが、
当時は入海で、旗山(標高約20m)
は海に浮かぶ小島でした。

この辺は砂洲が発達していて船の接岸が容易であるため、
古くから義経上陸地の有力候補とされています。
田野町には勢合(せいごう)の碑や
源義経上陸地の碑が建ち、芝生町には旗山があります。



義経阿讃を征く
 新しい世の光をうけ、一一八五年天の時来る。嵐のなか、摂津渡辺の津から
海路二十五里、義経軍勢、中ノ湊の多奈に上陸、軍船勢合に集ふ。
芝生旗山に清淨と正々の白旗ひるがへる。

 渚にひかへし新居見城主近藤六親家、義経「ここは何処ぞ」親家「勝浦に候」と応へ
天神山の手勢を率ゐて先陣を承る。堂々の陣 田口良遠の熊山城を撃破して、
北山の東海寺から、あつり越へして国府に至る。
白鷺に導かれて 佳吉の吉野川を渡河し、金泉寺から阿讃の国境、松明を焚いて越ゆ。
 東讃引田の要津、馬宿の海蔵院に仮宿白鳥から朝霧ふかき田面峠、粛々と二隊に分かれる。
 熊野別当湛増率ゐる。水軍播磨灘に入る。志度 古高松 相引川 源氏が丘に
 戦機熟せり
白旗と赤旗入り交ふ天下分け目の屋島合戦
 三日にして 平家宗盛政権の本営落城
今 旗山 山頂 英雄義経の銅像威光 四方に耀る(碑文より)

 二00五年二月二十日 田村直一 撰文
平成十七年二月吉日  義経夢想祭の日 設置
  芝生 旗山  八幡神社 氏子一同  「義経」小松島PR協議会 
  寄贈 直永 田村直一  徳島市国府町西高輪一ニ九
 青山石材店 青山義明 (石碑背面より)



八幡神社の急な石段を上り右手に回り込むと、
凛々しい騎馬姿の義経像が目に飛び込んできます。

この像は義経が旗山に兵を集めたときの勇姿を描いたものです。
周囲には源氏の白旗が翻っています。





源義経公之像
この像は、源義経が元歴二年二月(一一八五年)一の谷の合戦の後、
屋島に本陣を構えた平家を討つため摂津国渡辺(現在の大阪市北区)を
嵐の中五隻の船に分乗して船出、ふだんであれば三日かかるところを
わずかな時間で阿波の勝浦に着いた。
そして、この地に源氏の白旗を標旗として掲げ軍勢を立て直した後、
地元新居見城を居城にしていた近藤六親家の兵を
先導役に屋島へ向かい、わずかの軍勢で背後より攻めた。
あわてた平家軍は海に逃れた。この奇襲戦により、戦況を有利に導いた源氏が
屋島の戦いで平家を破った。こうした史実を通して市民の郷土史への
理解を深めるとともに、これらを後世に伝えるため、 愛馬(大夫黒)に乗った
義経の銅像を製作し、ゆかりの地(旗山)に建立するものである。
銅像は尾崎俊二氏の寄贈によるもので、足元から頭までが五.三五.m、
弓の先までが六.七0mあり、現存する騎馬像のなかで日本一のものである。
この「源義経公之像」が永くふるさと小松島市の歴史を伝え、
市民の心に生き続ける事を願うものである。
平成三年七月吉日 小松島市長 (義経像説明文より)



八幡神社参道を上った右側にも、尾崎俊二氏奉納の神馬像があります。
義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード)  
義経阿波から屋島へ進軍4(義経ドリームロード)  
『アクセス』
「旗山」小松島市芝生町宮ノ前 勢合の碑から5,3km 
徳島バス「芝生バス停」下車徒歩約7分 徳島駅まで約40分 徳島バス 088-622-1811

『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、2004年




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