和布刈(めかり)神社は、古城山の麓、
関門海峡に面して鎮座する小さなお社です。
早鞆(はやとも)の瀬戸は、下関市壇ノ浦と和布刈神社(早鞆明神とも)との
間の瀬戸で、その最も狭くなった岬の先に和布刈神社があります。
眼前には、早鞆の瀬戸と呼ばれる潮流の変化が激しい海峡があり、
ここで源平最後の合戦が繰り広げられ、平家一門をはじめ、
多くの人々が海の藻屑と消えていきました。
海中に戦国大名の宗氏が寄進した灯籠が立っています。
かなり風化が進んでいます。
真上に門司と下関を結ぶ関門橋が通り、
約700m向こうには下関市街が見えます。正面は火の山です。
下関市壇ノ浦から門司の古城山(標高175m)を望む。
『歴代鎮西要略』『豊前志』などによれば、古城山には、
元暦2年(1185)、平知盛が源氏との最後の合戦に備えて
家臣の紀井通資に命じて築かせたと伝えられる門司城がありました。
この城の遺構は残っておらず、現在、
城跡一帯は和布刈公園として整備されています。
壇ノ浦合戦前に平氏一門が勝利を祈願したという伝説が残っています。
「義経・平家伝説ゆかりの地 和布刈神社
仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦200年)に創建。
新平家物語では 合戦前夜神宮橘魚彦による祝詞と新酒で
平家の戦勝を祈願したとされる。
毎年旧暦元旦の和布刈神事は有名。 北九州市」
拝殿 神紋は八重桜です。
社殿裏手に高浜虚子の句碑が海峡を眺めるように建っています。
♪夏潮の 今退く 平家滅ぶ時も
昭和16年(1941)6月に虚子がこの地を訪れた時に詠んだ句です。
和布刈神社
九州最北端に位置するするこの神社は、社記によると、仲哀天皇九年に
比賣大神(ひめのおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、
鵜茅葺不合命(うかやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命(とよたまひめのみこと)、
阿曇磯良神(あずみいそらのかみ)の五柱の神を祭神として創建され、
江戸時代までは、速人(はやと)社とか隼人(はやと)社と呼ばれていました。
近世末までは、時の領主である大内氏、毛利氏、細川氏、
小笠原氏の崇敬庇護暑く、神殿前には細川忠興公が寄進した灯籠があります。
この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、
和銅三年(710年)に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、
奈良時代から行われていたものです。神事は、毎年旧暦大晦日の
深夜から元旦にかけても干潮時に行われます。三人の神職がそれぞれ松明、
手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。
わかめは、万物に先んじて、芽を出し自然に繁茂するため、
幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として昔から重んじられてきたものです。
神事のうち、わかめを採る行事は、県の無形民族文化財に、
また、当神社に伝存する中世文書九通は、市の有形文化財に指定されています。
北 九 州 市 北九州教育委員会 」
神官が鎌と松明を持ち、引き潮の海へ下り立ち
ワカメを刈って神前に供える神事は、
謡曲『和布刈(めかり)』にも取り入れられてよく知られています。
「謡曲「和布刈」と和布神事
ここ和布刈神社では、毎年十二月晦日寅の刻(午前四時)に
神官が海中に入って水底の和布を刈り、神前に供える神事がある。
今日はその当日なので、神職の者がその用意をしていると、
魚翁(竜神)と海士女(天女)とが神前に参り「海底の波風の荒い時でも、
和布刈の御神事の時には竜神が平坦な海路をお作りなさるから
出来たのである」と神徳をたたえて立ち去った。やがて竜女が現れて舞い、
沖から竜神も現れて波を退け、海底は平穏になった。
神主が海に入って和布を刈り終わると波は元の如くになり、
竜神は竜宮に飛んで入る。神前へ御供えの後最も早い方法で朝廷へ奉じられた。
史実に現れたのが元明天皇和銅三年ですので、それ以前
神社創建時より御供えとして用うる為神事が行われていたと思われます。
謡曲史跡保存会」
『アクセス』
「和布刈神社」〒801-0855福岡県北九州市門司区門司3492番地
TEL(093)321-0749
JR鹿児島本線「門司港」駅より西鉄バス「和布刈」行き→「和布刈神社前」下車すぐ
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年 「角川日本地名大辞典」角川書店、平成3年
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年