平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



一ノ谷合戦から約1年、屋島の戦いから1ヶ月余が経ちました。
屋島合戦で義経軍の奇襲攻撃受け、瀬戸内海を西に逃れた平家軍は、
平知盛が拠点とする長門国彦島(引島)に着き、
いよいよ最終決戦に臨むことになりました。

一方、屋島をおさえた義経には、伊予の河野水軍や阿波・讃岐の
豪族たちが兵船を率いて帰属し、散々迷った末に
平家方から寝返った熊野別当湛増の水軍も加わりました。

義経軍は、周防国(山口県東南部)まで進出し、源範頼配下の
三浦義澄の軍勢と合流しました。範頼が豊後に渡海する時、
門司の関(北九州市)を見た者として、周防に留まり
守備を命じられていた義澄は、当地の地理に詳しかったため、
義経に先頭を進むよう命じられたという。三浦半島を
本拠地とする三浦氏は、海運にも長けていたと思われます。

鈴木かほる氏は、「義澄が、すでに門司の関を見ていたということは、
平安末期、三浦氏の相伝所領が門司周辺にあった可能性は
大である。」と述べておられます。(『相模三浦一族とその周辺史』)

そこへ周防国の在庁官人の
船所(ふなどころ)五郎政利が、
数十艘の船を献上したので、義経は政利に鎌倉殿の
御家人たることを保証する書状を与えています。(『吾妻鏡』)

また関門海峡の複雑な潮の流れに詳しい長門国串崎の水軍を
味方につけることに成功し、源氏軍は串崎船12艘に先導され
長府沖の満珠(まんじゅ)島・干珠(かんじゅ)島周辺に集結しました。

この時の功により、串崎の船頭たちは平氏追討後、日本国中の
津泊(つどまり)の公役を免除するという義経自筆の
下文を与えられています。(南北朝時代の歴史書『梅松論(下)』)

源氏の動きを見守っていた平家軍は、全軍を三手に分けて
山鹿秀遠(ひでとお)を第一陣、松浦(まつら)党の水軍を第二陣、
そして平氏の軍を第三陣として総勢500余艘を以て彦島を出撃し、戦いの前日、
急潮の早鞆瀬戸を抜け、流れのゆるやかな門司の田ノ浦に陣を布きます。

屋島合戦の前、渡辺津で逆櫓をつけるつけないで義経と
対立した梶原景時が、決戦当日、また義経と衝突しました。
屋島合戦の時、遅れをとって、景時が到着した時には、
すでに合戦は終結していました。この汚名を挽回するため、
義経をさしおいて景時が「先陣は景時に」と言い張りました。
しかし義経が許さなかったため、あわや同士討ちというところで、
義経には三浦義澄が景時には土肥実平が取り付いて
事なきを得ましたが、これ以降景時は、頼朝に義経を
讒言するようになり、後の義経の悲劇へと繋がっていきます。

元暦2年(寿永4年、1185)3月24日午の刻(正午)
開戦の鏑矢が鳴り響き、両軍の鬨の声は、梵天まで轟き、
堅牢地神(けんろうじしん=大地を司る神)もさぞ驚いたに違いない。
こうして関門海峡を舞台に源平最後の戦いが幕を開けました。

 源氏軍 壇ノ浦赤間が関(山口県下関市)

 
源氏軍の先陣にいた義経は、(右上、日の丸の扇を持っています。)
楯も鎧も防ぎきれず散々に射られて退却します。
義経は屋島合戦の「義経弓流し」に見られるように、
背が低く小柄であったため、その弓は弱く、
立派なものではありませんでした。

平家軍 田ノ浦門司の関(北九州市)
 平家軍の三手に分けた第一陣。田ノ浦から発進した山鹿党は、
九州一の強弓を引く山鹿秀遠を先陣とし、源氏方へまっしぐらに進み、
精兵五百人を舟ばたに立て、一斉に矢を放ちます。

鬨の声が鎮まると、平家の総指揮官知盛は、舟の屋形に立ちあがり、
「いくさは今日が最後であるぞ。者ども、一歩たりとも退くな。
天竺(インド)震旦(中国)にも、わが朝にもならびなき
いかなる名将、勇士といへども、運命が尽きては力及ばず、
されども武士としての名誉は惜しめ。東国の者どもに弱気を見せるな。」と
大音声をあげ、武士たちに下知をとばします。

戦いのために用意した船は『平家物語』は、「源氏の船は三千余艘、
平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。」としていますが、
この数にはかなり誇張があり、『吾妻鏡』によると、
平氏の五百余艘に対して源氏は八百四十艘としています。

平氏側の唐船(からぶね=中国風の大型船)には、安徳天皇はじめ、
総大将の平宗盛や二位尼、一門の女房達が乗っている御座船と思われます。
ところが、総指揮官の平知盛(清盛の4男)は、この唐船をおとりに使い、
実際には安徳天皇や宗盛、二位尼らを粗末な船に乗せ、
唐船には身分の低い兵を乗せて御座船めがけて襲撃する源氏を
一気に討取ろうという作戦を立てました。
『平家物語』は、阿波民部重能(しげよし)の裏切りによって
この計略は敵方に通報された。と記しています。

阿波の豪族・阿波民部重能(成良とも)は、清盛が福原に
経島を建設する際、その奉行を務めるなど有力家人として平氏を支え、
平家都落ち後も忠誠を尽くし、屋島に内裏を建て一門を迎え入れるなど
貢献度は抜群でした。その重能に裏切りの心がめばえたのは、
時世の動きと嫡男の田内(でんない)左衛門教能(のりよし)が屋島で、
義経の家臣伊勢三郎義盛に騙され捕虜となってからでした。

知盛は子息のために、重能が裏切ることを危惧し、
決戦を前に斬り捨てようと、惣領である宗盛に進言しますが、
凡庸な宗盛はこれを見抜くことができず許さなかったため、
知盛は歯ぎしりをして悔しがったという。
これが平家にとって決定的なあやまちとなります。
知盛の不安は的中し、平家側の作戦はすべて源氏方に漏れ、
しだいに敗色が濃くなるとそれまで平家に
つき従っていた者たちまでが次々と寝返りました。

壇ノ浦合戦では、源範頼の功績も大きかったのです。
壇ノ浦海戦に先だって、源氏本隊の範頼軍は、九州一の
反平家勢力の緒方三郎惟義(これよし)・臼杵二郎兄弟から
船の提供を受け、周防国を発ち豊後国(大分県)に上陸し、
再度渡海して葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町)に上陸しました。

元暦2年(1185)2月、原田種直一族を葦屋浦(あしやうら)合戦で破り、
平氏の九州上陸を阻止する態勢を整えていたので、
平家の逃げ場はどこにもありませんでした。
平氏の九州支配、とりわけ大宰府を中心とした九州支配が
範頼によって根絶やしにされていたことになります。

原田種直の肖像画(岩門城跡にて撮影)
原田種直は、大宰府府官を歴代継承してきた
大蔵姓原田一族の惣領で、平家に取り立てられて
大宰権少弐(しょうに)となるなど平家が最も頼りとする存在でした。
妻は平重盛の養女(平頼盛の娘とも)といわれています。

一門都落ちの時、平家はすぐに原田種直を頼り、種直は自分の館
(福岡県筑紫郡那珂川町安徳)を安徳天皇の行宮にしています。
壇ノ浦合戦では、平氏側の水軍に原田種直の名が見えませんが、
『源平盛衰記(巻43)』(源平侍遠矢、附けたり成良返忠の事)には、
種直の名があり、平氏水軍として参加したことは間違いないようです。
源氏軍が結集した満珠島・干珠島 
渡辺の津(義経屋島へ出撃)  

龍国寺(原田種直赦免)   闘鶏神社(熊野水軍本拠地)  
『参考資料』
角田文衛「王朝の明暗(平知盛)」東京堂出版、平成4年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
林原美術館「平家物語絵巻」㈱クレオ、1998年 
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年
朝日カルチャーシリーズ「名将の決断 斎藤道三・平知盛」朝日新聞出版、2009年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年 
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
菱沼一憲編著「中世関東武士の研究 源範頼」戎光祥出版、2015年
鈴木かほる
相模三浦一族とその周辺史(門司の関と三浦氏)」新人物往来社、2007年
完訳「源平盛衰記(8)」勉誠出版、2005年

 

 

 



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