平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



壇ノ浦というのは、関門海峡の下関側の名です。潮の流れが速く、
その変化が激しいことで知られ、早鞆瀬戸(はやとものせと)ともいわれています。

屋島の戦いに勝利した源義経は軍船840艘を率いて関門海峡の東口、
奥津(満珠島・干珠島)まで進みました。これを聞いた平家軍も
軍船500余艘を率いて彦島を出撃し、田ノ浦
(現、北九州市門司区・関門橋の東側)まで船を進め、
奥津の義経軍とは30余町(約3270m)隔てていました。両者はそこで
元暦2年(1185)3月24日午の刻(正午)に戦闘を開始しました。

合戦の開始については『平家物語』には「卯刻(朝七時)に矢合」と
書かれていますが、正しくは義経の報告によって、
九条兼実の日記『玉葉』元暦2年(1185)4月4日条に
「去る3月24日長門壇ノ浦において合戦、午の刻より
申の刻(午後4時)に至る。多数を討取り、生け捕りにした。」とあり、
正午に始まり16時頃まで行われたことが確認できます。

『玉葉』のこの記事は、追討の大将軍義経から合戦報告を
受け取った後白河院の使者が右大臣九条兼実邸を訪問し、
義経からの飛脚の内容を伝え、それを書きとめたものです。

戦いの前半の様子を『平家物語』(巻11・壇浦合戦)は、
「門司、赤間、壇ノ浦は、潮が逆巻いて流れ落ちるような
急流であったから、平家は潮の流れに乗って有利に戦かったが、
潮に向かった源氏の船は押し返された」とあるように、ここでは
潮流が合戦に大きな影響を与えたように記されています。しかし、
戦いの途中で潮流が反転し、状況を変えたとまではいっていません。
『吾妻鏡』(元暦2年3月24日条)には、合戦に関しても
簡潔にしか記してなく、潮流についてはまったく触れていません。

合戦への潮流の影響は、古くは黒板(くろいた)勝美
東京帝国大学教授が提唱した潮流勝因説です。
黒板教授は旧海軍の潮流資料に基づき、
その著書『義経伝』において、壇ノ浦合戦当日の
潮流の変化を推定し、関門海峡の潮流が正午ごろは、
内海に向って東流していた潮が、午後3時ごろから
外洋に向って西流に変化すると指摘しました。

義経は味方に引き入れた地元の串崎船に乗りこみ、早くから
老船頭に潮流の変化を聞き、午後3時頃より西流という
潮流を予測して作戦を立てた。これが功を奏して序盤こそ
苦戦したものの、潮が逆流してからは一気に反撃に出て
最大8ノットという激しい潮流を利用して勝利をおさめたのだとし、
戦いの勝敗を決したのは、関門海峡の潮の流れの
変化であるというのです。この説は広く支持され、
壇ノ浦の強い潮流が勝敗の最大要因とされました。

ところが、近年のコンピューター技術の発展により、
これに異論を唱える人がでてきました。
金指(かなさし)正三海上保安大学教授は、潮流のコンピュータ解析を行い、
合戦の行われた日は小潮流の時期で、黒板説の根拠となっている
8ノットという速い潮流は無く、
また大正時代に旧海軍が潮流を
調査した場所は最も狭い早鞆瀬戸の話であり、
主戦場の壇ノ浦は、それより東北、潮流の影響の少ない
満珠島・干珠島に至る広い海域で、
この海域の当日の潮流は1ノット以下であり
合戦に影響を与えるものではないとしました。

当時の船を復元した船舶史の石井謙治氏は、同じ潮流に
乗っていた源平両軍の船が海面を進む速力は同じであるといい、
従来の説は、人々が陸地から見た船の動きが
海上でも同様に作用すると錯誤しているとし、
合戦には潮流はまったく影響しないと述べておられます。

中本静暁氏は、合戦のあった旧暦3月24日(新暦5月2日)と
月と太陽位置関係がよく似ているのは、
昭和23年(1948)5月2日であるとし、そのデーターを提示されています。
『地域文化研究』(元暦2年3月24日の壇ノ浦の潮流について)

ちなみに潮の干満(かんまん)は、月と太陽の引力によって起き、
月と太陽位置の影響が最も大きく影響しています。

義経が後白河院に報告したという『玉葉』の記述によって
この表を見ると、12時から午後4時までは、
潮流が最も静まっている時間帯であることがわかります。

豊富な海戦の経験をもつ平氏は、壇ノ浦が時間帯によって
潮の流れが目まぐるしく変わることを熟知しています。
海に精通していた地元の小水軍を味方にした義経も
この海域の複雑な潮流や操船のコツを聞いたと推測できます。
このことから、源平双方は潮の流れが緩やかな
時間帯を選んで合戦を行ったと思われます。

『平家物語』は、沖は潮の流れが速いので、
梶原景時父子は、
水際に船をつけて潮の流れに乗って進んでくる
敵の船を熊手にかけて引き寄せ、親子主従14、5人が次々と
敵の船に乗り移って討取り、大成果をあげたと記しています。
海戦が狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の
向きも変わるという壇ノ浦で行われたということは、
潮流の影響を全く無視できなかったことを物語っています。

梶原景時に扮する片岡市蔵の役者絵
(東京大学大学院情報学蔵)源平合戦人物伝より転載。

梶原源太景季



関門海峡は、1日平均500隻を超える船舶が行き交い、
外国船や大型船もかなりあります。
船舶の安全航行のために、
関門海峡には潮流信号表示機が3か所設置されています。

下関側では火の山の下、国道9号線沿いの高台に潮流信号の
電光表示機があり、
関門海峡・早鞆瀬戸の潮流の状況
(流向・流速・流速の傾向)を電光板で知ることができます。

電光表示は、東流(玄界灘から周防灘の方へ流れる潮流)が「E」、
西流(周防灘から玄海灘の方へ流れる潮流)は「W」で表されます。

また矢印の上向き「↑」は急潮に向かう、
下向き「↓」は緩潮に向かうことを表します。
0~13までの「数字」は、潮流の速さをノットで示し、
これまでに最高の急潮は12ノットとされています。



『アクセス』
「火の山下潮流信号所」 下関市みもすそ川町3-1 
「御裳川バス停」下車徒歩約6分
『参考資料』
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年
 河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
朝日カルチャーシリーズ「名将の決断 斎藤道三・平知盛」朝日新聞出版、2009年

 

 



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