CubとSRと

ただの日記

素直(お人好し?)なものだから、つい・・・・。①

2020年03月24日 | 重箱の隅
2014.04/10 (Thu)

 先日来、「 渡部亮次郎の『頂門の一針』」というメールマガジンを拝見しています。
 それに、先日と今回、「南京大虐殺はなかった」ということに関しての興味深い記事が出ていました。

 標題の通り、「これが事実だ!」と言われれば、根が素直(お人好し?)、なものだから、つい、信じてしまいます。
 あ、いやいや、私のことじゃありませんよ。日本国民全てのことです(あ、ということは私も含みますね)。

 「事実は一つ。でも真実は無限にある」
 これ、さかさまに覚えている人があるでしょうけど、ここは重要なところです。
 色んな事象を集めて、そこから物事の本質を探る、というのは哲学です。真実と本質は違います。真実は関係者によって種々様々。情況、状況によって色合いも変わってきます。
 だから報道する時は、真実ではなく、事実を明らかにしようとする。
 だから警察も、事実を明らかにすることによって、犯罪者の真実を捉えようとする。妙な方向に行きそうですが。

 「南京大虐殺」に関してだけではなく、日本軍の悪行(?)を証明するものって、当事者が「私が言ってるんだから間違いない」ってこと、多いと思いませんか。
 それで、「だって、河野談話で認めてるじゃないか!」と言われたら、もう何も言えない。
 「証拠の文書がありましたから」、「これが証拠写真です」、と記念館に寄贈する。
 そして極めつけは「兵士が欠かさずつけていた戦中日記です。ここに虐殺の実態が・・・。」

 河野談話は検証がなされるということになったけれど、シナ・朝鮮が何を言おうと、これは既に擦り合わせがあったということが、明らかになっている。
 慰安婦の「私が証拠だ。私が言ってるんだから間違いない」というのは噴飯ものであることがばれてるし、証拠写真というのも、全く関係のない寄せ集めか合成写真であると見破られている。
 けど、そんな中で日本軍の兵士が詳細に書き込んだ日記、というのが出てくると、途端に何も言えなくなってしまう。
 「何!事実なのか!・・・・・・」

 ところが、冷静になってみると、何だか、何か引っ掛かっていることがあるような気がする。で、或る時、はっと気が付く。まさか、そんな簡単なことに気が付かなかったなんて!

 「戦中日記を、毎日欠かさずつけていた」(!)
 これだけ見れば、丸い眼鏡をかけた真面目で几帳面な一兵士が脳裏に浮かぶけれど、その日記がペンで書かれていた、としたら、どうだろう。そして、「毎日書かれていた」、というのは。
 戦場で、戦闘もあり、強行軍もあり、野営もあり、という時、夜、暗闇の中で、どうやってつけたのだろうか。ロウソクでもつけたのだろうか?カートリッジ式のペンではないのだから、インク瓶も持って行った?「あれぇ~?」、となりませんか。

 上下二回に分けてあるのですが、何しろ長文なものですから、4回ほどに分けようかと思っています。
 というわけで、お喋りはこの辺にして転載します。

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       2014(平成26)年4月7日(月)第3269号
 
 無恥の捏造屋「朝日新聞」(上):平井修一

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 吉川正司・元都城歩兵第23連隊中隊長が
「朝日新聞との闘い・われらの場合 都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ」を書いている(「文藝春秋」昭和62・1987年5月号)。

 27年前の記事で、朝日は忘れたいだろうが、ネットのおかげで我々はしっかり朝日の汚い手口を知ることができるのは幸いだ。怒りを新たにして朝日殲滅、日本再興へ励もう。以下、転載する。(長いが同志諸君、日本の名誉、皇軍の名誉がかかっている。どうぞ踏ん張って読んでくれ!)
            ・・・

 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。

 「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。
 思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。
 その記事によれば、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵が所持していた、「虐殺に直接携わり、苦しむ真情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているなどの写真3枚が見つかった」というのである。

 惨殺写真もさることながら、日記の内容は衝撃的だった。

 昭和12(1937)年12月12日の南京入城から3日後の15日に、こういう記述がある、と記事は言うのだ。(カッコ内は朝日の註)

 「今日逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称)約2千人ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に出会う。・・・処置なきままに、それぞれ色々な方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢えて喜んでいるのが流行しだした様子」

 21日には、こう書かれてあるという。

 「今日もまたニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」

 かねてから南京大虐殺に固執していた朝日にとっては、きわめて重大な発見とみえて、記事のリードには「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人といわれながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になるとみられる」とある。

 ところが、この“歴史資料”は生き残り将兵で結成している「都城23連隊会」の人々のその後の調査によって、見るも無残に突き崩されることになる。
 南京陥落の時、私は中尉であった。都城歩兵第23連隊の中に連隊砲中隊というのがあり、その中隊長代理として南京作戦に加わったのである。

 突入翌日の13日には城内の掃蕩をやっているが、城内に敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。
 連隊はそれ以降、主力を水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し、警備にあたったが、翌13年1月13日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。
 従って朝日の記事内容はまさに寝耳に水であった。

 身に覚えのない報道に対して、最初に行動を起こしたのは、地元に住む「都城23連隊会」の面々だった(私は東京在住)。
 これ以降の記述は、主として宮崎の連隊会事務所がまとめた「連隊会だより12号」にのっとってすすめていくことをお断りしておく。

 ■「新聞は嘘つかん」

 報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。
 氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。
 途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。

 問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。
 続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ」
 北郷村には3つの寺があり、2度空振りのあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。名前は河野美好──。

 ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」との返事である。
 この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。

 昭和59年9月22日。連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。
 連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
 支局長「いや、当宮崎支局の取材です」
 連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
 支局長「万全を期している」
 連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
 支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」
 連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
 支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
 連隊会「その兵士の名前は」
 支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
 連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわからんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
 支局長「・・・」

 連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
 支局長「その通りだ」

 連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」
 支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」

 連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。
 支局長のポストに就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」

 ここで無言のまま席を立った中村支局長は、やがて1枚の写真を持って現れ、連隊会の代表たちに「これを見てください。」と突きつける。それは、建物の前の路面に生首が12、3個ころがっている写真であった。

 連隊会「これはなんです、これが虐殺現場を撮影したと思われる写真なの
ですか!」

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 一旦ここまでにします。上の後半は続けて次の日記へ。
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