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ただの日記

歴史は繰り返すべくして

2020年03月24日 | 重箱の隅
2014.04/08 (Tue)

 「歴史は繰り返す」と言います。
 「ホントにそうかなぁ~?」と思って振り返ると、確かに似たようなことが周期的に起こっている。
 今回のクリミア半島のことだって第一次世界大戦の時、「ヨーロッパの火薬庫だ」、なんて習いました。あ、ありゃバルカン半島だった。ま、似たようなもんだ。(似てないだろ!)どちらも戦地になっています。半島ってどうしてもこうなる。
 何故って、陸とも島ともつかないところってのは、文化の吹き溜まりであると同時に、異質な文化の窓口でもあるんですからね。どうしても波風が立ち、火花を散らします。だから似たようなことが起こると、特に目立つ場所です。

 「繰り返す」ということで考えると、卑近な例でいえばファッションなんかもそうですね。流行に敏感な女性の服装は言うまでもなく、男の服装だって流行り廃りはある。
 私が就職した昭和51年は、ジャケットのボタンは二つが普通で三つボタンなんて野暮ったいと思われていた。三つボタンにラペル付きのベストなんて時代錯誤、「戦前か?」って。それがいつの間にかベストなしのツーピースから、ワイドカラーのシャツになり、当然のように三つボタンになる。さすがにラペル付きのベストや段返りの三つボタンはあまり見ることなく今に至ってますけど。

 で、思うんですが「歴史は繰り返す」、ってのは「繰り返すべくして」、の一語が抜けているんじゃないか、本当は「歴史は繰り返すべくして繰り返す」、のではないか。
 「何となく同じことが起きてしまう」のではなくて、「起きるべくして同じことが起きる」のではないか。必然性、というものがあるんじゃないかと思うんです。

 「事実は小説よりも奇なり」
 実際に「まさかぁ~!」といったようなことは歴史上、能く起こる。けど、それって、その一事象だけを採り上げて見るからそうなんであって、その前後にあったことを並べて、その国の精神史(地政学を基に、です)を重ねてみれば「なるほど、そうかも知らん」となること、多いです。
 「事実は小説より奇なり」は全体の流れで見れば「成るべくして成っている」。決して「奇」ではない。
 
 「歴史に『もしも(if)』はない」と言われながら、誰も、決して「もしも~だったなら」と話題にすることをやめようとはしません。あれは「もしも~」と考えることによって、「成るべくしてなる」ということを無意識のうちに再確認しているのかもしれません。
 「何をわけのわからないことを言ってるのか」、って?
 先年の北朝鮮による「延坪島砲撃事件」のことですよ。あれ、「歴史は繰り返す」の典型的な例じゃないか、と。
 あれが起こったが故に韓国による「対馬侵攻作戦」が実行されなかった、という話です。

 「また変なことを言って居る!」と思われた?
 思って下さい。そして、これを御覧ください。
       ↓
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1948年8月13日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言。金日成はこれに対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。
 この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。
 反共と同時に反日家でもあった李承晩は、今度はポツダム宣言で日本が放棄したとする日本領土について、返還を主張し始めた。
 大統領就任3日後の1948年8月18日、記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。1949年1月7日には対馬領有を宣言した。
 それ以前にも李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領から除外するよう執拗に要求していたが、アメリカは再三にわたって拒絶していた。

 米ソの対立を背景に南部は大韓民国、北部は北朝鮮として建国。
 南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。

                 (以上wiki「朝鮮戦争」より部分転載)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 最後の二行、
 「北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。」
 今回はここが着目点です。
 特に「1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた」。ここです。
 例によってサラッと読み流してしまいそうですが、何か変だなと思いませんか。
 南北朝鮮が成立したのは1948年8月と9月。
 韓国軍が「半島南部に移動していた」のは「1950年6月」。
 何のために?ソウルは韓国北部にあるから、北と戦うためじゃありませんよね。

 となると、転載文中の
 《(李承晩は)大統領就任3日後の1948年8月18日、記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。1949年1月7日には対馬領有を宣言した。
 それ以前にも李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領から除外するよう執拗に要求していたが、アメリカは再三にわたって拒絶していた。》
 、というのが直接関係するんじゃないか、となりませんか?

 日本の敗戦により、棚ぼたの独立を手に入れた韓国は、あろうことかその勢いで日本侵攻(彼等に言わせると対馬「奪還」、ですかね)を企てていた。
 将に出撃、となった時、北朝鮮がものすごい勢いで南下してきたため、一瞬にして亡国の危機に陥った韓国は、日本侵攻を諦めた。

 こういう風には習いませんでしたけどね、学校では。
 勿論、「李承晩が対馬の領有を執拗に主張していた」とか「対馬の領有を宣言した」、「半島南部に軍を移動させていた」、なんてことも習いませんでした。
 でも、自衛隊の人は知っているんでしょうね。
 (あ、ちなみに警察予備隊は1950年、自衛隊は1954年ですからね。「対馬侵攻」なんてされた日にゃ、元寇の時なんかくらべものにならないくらい酷いことになってたでしょう。全く軍備がないんですから。)

 同じ見方をすれば、あの「延坪島砲撃事件」だっておかしいでしょ?
 新聞やテレビでは「突然北朝鮮が狂ったように砲撃してきた」みたいに言ってましたが、北朝鮮って、「あてつけ」を初めとして、色んな意図があってこういうことをします。必ず何らかの理由があります。
 いきなり、「島」に向けて砲撃、だなんて狂ってるとしか思えないし、もし本当に狂ってるのなら、国の将来は既になくなっているんじゃないでしょうか。
 あの後、韓国は義理立てみたいに撃ち返しているけど、風のうわさでは無人の荒れ地に着弾しただけだとか。一体何処を狙ってたんでしょう。

 先日「余命3年時事日記」ブログにこの件が書かれていたんですが。
 是非、そちらをご覧ください。
       ↓
 http://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/2014-04-06

 補足
 20101020
 韓国対馬侵攻と疑われる部隊移動開始。
 察知した北朝鮮が軍を移動。
 これに中国も反応。瀋陽軍区朝鮮国境地帯に兵力を集中移動。
 監視衛星で察知した米から警告も民主党政府は反応せず。当時の防衛大臣は北澤俊美。

 朝鮮戦争再開を防ぐため、米中工作、了解のもとに
 20101123延坪島砲撃開始。

 対馬侵攻情報に疑問を持ったか(日本)政府は動かず、自衛隊は独自に態勢を整えた。

  韓国軍の部隊配置がしばらく通常にもどらなかったため統合態勢が続いていた中で
 20110311東日本大震災が発生、すでにあったため統合任務部隊を新たに創設する必要がなく即応できた。....
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