CubとSRと

ただの日記

日本は日本人だけのものではない(神戸堂から)

2020年02月28日 | 心の持ち様
2012.07/13 (Fri)

 帽子は似合わないものと決めつけて、ついぞかぶることがなかった。
 そんな風になった理由の一つは、姉に「お前は帽子が似合わない」と言われたからだった。
 実際、鏡に映った帽子を被った姿は、何とも珍妙に思えて仕方がなかった。恥ずかしくて仕方がない。妙なものが頭の上に載っている。昔ラッキー池田がゾウさん型の如雨露とかを頭に括り付けていた。それと同じ感じがした。たとえば、ゆでだことか、ワカメとか、が頭に載っているみたいな。
 それが出石尚三という人の本を読み、幅広のブリムを持ったスペイン風の帽子がトレードマークになっているピアニストの話を雑誌の記事(?)で知って、「似合う似合わないは、本人の認識力の問題なんだ」と、そして自他共に「見慣れているか否かだけのことを、いつの間にか絶対基準であるかの如く思い込んでいたのだ」、と分かりはじめ、やっと普通にかぶるようになった。
 考えてみれば中学生の間、ずっと学生帽をかぶっていたのだ。校則だったから似合うかどうかなんて、頭っから否定されていた、というか、そんなもの、考えること自体が埒外のことだった。
 確かに、「頭が大きいから似合わない」「顔が大きいから似合わない」なんて言うけれど、「大きな頭を人目に触れさせない」、或いは「大きな顔を隠す」方法は、というと帽子以上のものはない。

 そういえば、禿げてる人が帽子を被ってると理知的に見える。室内でその帽子を取ると落ち着いて見える。場所柄を弁えての行動の手本みたいに見えるからだろう。逆に帽子を被ってるから禿げてる、と思われて、取ってみたらふさふさ、というのも意外性があっていい。カツラと違って周囲も何の気も使わないでいい(当たり前か)ってのも利点だ。
 何より帽子を被っていると、動作がゆったりとして、落ち着いて見える。少なくとも頭よりは大きいのが帽子だから、帽子によって動作が増幅されて見えるわけで、被ってない時と同様に頭を動かしていると、いつもより落ち着きがないように見える。自然、頭はまっすぐに保たれ、無駄に動かなくなる。
 ついでに言えば、髪の毛はカメレオンじゃないんだからそうそうコロコロと変色させられない。けど、帽子だったら服装に合わせて気軽に交換できる。こんなに便利な小道具はない。バロック時代のカツラだってこうはいかない。かしこまった場、気軽な場、それぞれ帽子ひとつで対応の幅が広がる。

 いいことづくめ、と言っても良いのに、「似合わない」という根拠のない自信(?)故に長らく帽子を被らなかった。で、バイクに乗るようになり、ヘルメットを「似合う似合わない」なんて関係なし、否が応でも被らなきゃならなくなって、異様に大きな自分の頭のシルエットにも慣れ、キャップを被るようになり、ハンティングに移り、最近やっとパナマ帽、なんぞというものも被るようになった。

 キャップからハンティングに、となり始めた頃、「神戸堂帽子店」のことを知った。当時は50年以上にもなる古い店だということを知らなかった。そして、時々行くようになり、気が付いたら10年ほどが過ぎていた。
 昨秋、店主と店員それぞれが、高齢になったが故に店を閉めることにした、と言われた。
 「今年の夏には閉店のつもりです」

 そう言われて、何とか店が閉まる前にもう一度、とは思ったものの、事情あっての田舎暮らし、そう簡単に自由には動けない。やっとのことで今になって神戸に出る機会ができた。
 「もうないかもしれない。」
 そう思いながらも、とにかく行ってみることにした。 

 店はあった。閉店、の様子はない。しかし、店内に入ると二人揃って白髪の、店主も店員の姿もなかった。代わりに若い男女が店にいた。聞くとこれまでの歴史を受け継いで、店は同じ方針でやっていこうということになったらしい。
 古くからの客が、閉店となることを惜しんだのだろう。それと同時にやはり、ネットで話題になって「存続させてくれ」という声も多く寄せられたようだ。
 とは言え、それだけで何とかなるようなものではない。店主もそれを知ってできれば存続をさせたい、という気持ちから何らかの行動を起こしたと見える。
 誰も知らない田舎の食材がネットで全国に知られ、飛ぶように売れ始めたという話はよく聞くけれど、こんな老舗が多くの客の声に応えて閉店を思い留まり、これまでを大事にして存続させようと決意する。こんなこともあるんだなと思う。

 「日本の人口はどんどん減っていって、このままでは日本がなくなる」と断じかねない勢いの昨今の風潮だけれど、だからと言って外国人を何百万人も日本に住まわせ、「日本は日本人だけのものじゃない」と言う。門戸開放だ、と。
 そりゃおかしい。それ、日本じゃないだろう。
 そんなのを「共存共栄だ」と言うのは、文化の何たるかを全く分かっていない人と言っていい。日本の文化を受け継ぎ、発展させてこそ日本。それは人口の多い少ないではない。
 
 「店を続けるか、それとも閉めるか。」小さなことと認識されているだろうこんなことの集積が、日本を(いや、どこの国だってそうやって)形作って来ている。
 そうやって各国の文化があって、それぞれの社会(町、地域、国、そして世界)が、それぞれの場で鎬(しのぎ)を削って、世界は成り立っている。努力あってこその共存共栄。「減ってるならよそから持ってきてバランスを取ればOK」、なんてものじゃあない。
 まあ個人的には、これで、神戸に行けばこれまで通りに欲しい帽子が手に入る、ということで、取り敢えずは「よかったよかった」なんです。

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