分かり易くなるようにと「言い換え」が多用されるようになり、「円周率は大体、3!」となったけれど、その辺から「あれ?何かおかしいぞ」と思う人が増えてきたような気がします。
が、多勢に無勢。日本人の根っこには他人に対して「思い遣りを以て優しく接する」と言う心掛けがあって、却ってそれが徒(あだ)となり誤解、誤用は燎原の火の如くに・・・・。
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世間話「義援金と義捐金」
2011.04/10 (Sun)
今回は、「何を今更」とか「別にいいじゃん」「目的を見失うな!」とか、やられそうなことです。世間話ですよ。気にしないで下さい。でも「一事が万事」は、ここでも当てはまるかもしれませんよ。
・・・というわけで。
以前に或る人の日記に「子供と子ども」という文があって、これ、「子供」の方には差別的要素があるというので、「子ども」と書くようになったらしい、とありました。
「子供」の「ども」は蔑称の複数形であり、「子ども」の方は「こども」という一つの品詞であるという説明になるんだそうです。
成程、例によって浅はかなことを言い出したもんだ、と思いました。
いっそ他の「差別用語だ!」と言ってる言葉と同様に抹殺したらいい。姑息なことをせずに。(或る関西のラジオパーソナリティーは「子たち」とか「お子たち」なんて言ってます。そこまでやって「子供狩り」をすればよい。あ、「子供狩り」って「子供という言葉を狩る」、ということですからね、誤解されませんように♡)
「疑問」という語句を、戦後に作られた日教組は「疑い」と言い換えた。それと同じパターンです。良かれと思ってしたことです。ただ、「浅はか」であり「安直」に過ぎる。
「疑問を持つ」というのは、「理解に到達するために、不明な部分を問いかけ、明らかにしていく」ことを指します。
それに対して、「疑う」というのは現時点で、まず納得したことを「本当か?」と再点検する。そして「理解した」時点でも同じことを繰り返し、更に「本当に分かったかどうか分からない。『現時点では分かった』というしかない」といった、些か以上にひねくれた表現の結論を出す。
自然科学者としてなら優れた姿勢、とほめられるべきところですが、初等、中等教育でそれをやるのは人格形成の面で問題です。
「またまた、そんな大袈裟な」と言われそうですが、冗談ではない。これこそ「地獄への道は『善意』という名の敷石で『敷き詰められている』」ことの実例、です。
「差別的な言葉だから、せめて漢字を平仮名にして、意識しないようにしよう」
「難しい言葉だから、分かりやすく言い換えてやろう」
どちらも思考停止への、優しく甘美な誘いです。
こんなのもありましたよ。
「体そう」。これは分かりますよね。「操」は、まだ習ってないから。
じゃ、これは?「お水」。「おすい(汚水)」と読むのだそうです。「汚」は、まだ習ってないから。
笑って済ませるでしょう?同時に「これ、変」と思うでしょう?
でも「疑問」を「疑い」と言い換えるとなれば、「いいんじゃない?」となっていませんか?
そういう小さなことの限りない積み重ねが文化であり、だから、「これくらい」が積み重なって文化は変質していく。
「これくらい」という姿勢なら、たとえば三宅センセみたいな人が「そんなこと言うもんじゃありません!」って叱ってくれるけれど、良かれと思ってやっていることになると、「まあ、悪気はないんだから」となってしまう。
でも、「地獄への道は『善意』という名の敷石で『敷き詰められている』」、ということになるんです。
その伝で言うと、「義援金」と「義捐金」どちらが本当なのでしょう。
この言葉が初めて遣われたのは明治時代で、その時は「義捐金」。
「義援金」は「(正しい)意図を以って社会を援けるための金」ということでしょう。
「義によって助太刀致す」、みたいな感じでしょうか。
今は「義援金」が普通の言い方です。実際、辞書を見ると、「義捐金」の方に▲がついている。常用漢字ではないので、ということです。
でも、本来は「義捐金」。「意図を以って、社会に金を捐(すて)る」。
何故、「義援金」、になったのでしょうか。日教組は直接にはからんでいないと思われます。それよりも、根底に「日教組的な考え方」が流れていると見て良いのではないでしょうか。
「日教組的な考え方」というのは、ここまで書いてきたことから分かっていただけると思いますが、「歴史、文化に思いを致すことなく、現時点を中心として物事を裁決する(浅はかな)考え方」を言います。更に付言すれば、基本は「良かれと思って」、という姿勢。
正しい語句、正しい意味合いで以て物事を考える。日本人として正しい日本語の語句で、その正しい意味合いで以て物事を考える。それが「社会に参加する」「社会に参加する実力を持つ」ということです。
安易な言いかえ、大雑把なものの見方・捉え方でまともに「社会を継承、発展させる」ことができるでしょうか。
お気づきの方もあるかと思います。実は、これ(物事を易しく言い換えようとする)、日本人の本来持っている考え方の一面でもあるのです。何でもかんでも「良かれ」と思って、やる。「小さな親切」なんです。
でも、される方にとっては、ただの「おせっかい」なんだから「大きなお世話」。
「日韓併合」が一番分かりやすいことでしょうか。日本人の方からすれば「朝鮮、韓国は恩を仇で返す」と怒りますが、あっちにしてみれば、「ハングルなんか広めてくれなくたってよかったのに。みんなが権利を主張しはじめて、いい迷惑だ!(元両班)」ってなもんです。
最近は「ハングルを日本が取り上げようとしていた」みたいなことまで言ってるけど(こちらは併合後、棚ぼた独立を手に入れたにもかかわらず、反日教育を受けた結果)、全ての国民が思っている。また脱線。
他人に親切にする。思い遣りを以って接する。自分のことは少々犠牲にしても、相手のために良かれと思ってそうする。そうすれば周りはほめてくれるし、しなければ白い眼で見られる。
悪く言えば世間体、人目を気にし、良く言えばお互いを律して来た。
これは、良くも悪くも間違いなく日本の一面です。日教組の教育にも、だからちゃんとその名残がある。
「捐」=「捨てる」 →捨てられた金をもらう=乞食根性
「援」=「援助する」→手助けをしてもらう =困った時はお互い様
「ほら!だったらそれでいいじゃないか」となりそうですね。
ところが「傾城阿波の鳴門」のあの「巡礼に御報謝~」。「御奉捨」が本当なんだそうです。「捨」の前に「奉(たてまつ)る」、が付いている。そして僧や巡礼に布施をすることを「奉捨」或いは「喜捨」と言います。
「捨」というのは、「要らぬ物を捨てる」ということではなく、大事なものを喜んで差し上げる、という意味になります。
確かに「巡礼に御報謝~」なんて言ったら「巡礼の俺様にお礼を言え~。布施を受けてやってるんだからなぁ~!」
何故そんな「奉捨」なんてことをするのか。
「在家のため、動くに動けない自分、の代わりに尊い仏道修行をして下さる。だから、喜んで!」ということのようです。
「捨」は自ら進んで大事なものを投げ出す。それをもっと大きなことのために使ってもらう。「貧者の一灯」に近い、潔い心持です。
「援けようなんておこがましいことは思っていませんよ。このお金は貴方の良いように遣ってくださいよ」
そうなると、「義援金」と「義捐金」、これまでとは違って見えてきませんか。
2011.04/10 (Sun)
今回は、「何を今更」とか「別にいいじゃん」「目的を見失うな!」とか、やられそうなことです。世間話ですよ。気にしないで下さい。でも「一事が万事」は、ここでも当てはまるかもしれませんよ。
・・・というわけで。
以前に或る人の日記に「子供と子ども」という文があって、これ、「子供」の方には差別的要素があるというので、「子ども」と書くようになったらしい、とありました。
「子供」の「ども」は蔑称の複数形であり、「子ども」の方は「こども」という一つの品詞であるという説明になるんだそうです。
成程、例によって浅はかなことを言い出したもんだ、と思いました。
いっそ他の「差別用語だ!」と言ってる言葉と同様に抹殺したらいい。姑息なことをせずに。(或る関西のラジオパーソナリティーは「子たち」とか「お子たち」なんて言ってます。そこまでやって「子供狩り」をすればよい。あ、「子供狩り」って「子供という言葉を狩る」、ということですからね、誤解されませんように♡)
「疑問」という語句を、戦後に作られた日教組は「疑い」と言い換えた。それと同じパターンです。良かれと思ってしたことです。ただ、「浅はか」であり「安直」に過ぎる。
「疑問を持つ」というのは、「理解に到達するために、不明な部分を問いかけ、明らかにしていく」ことを指します。
それに対して、「疑う」というのは現時点で、まず納得したことを「本当か?」と再点検する。そして「理解した」時点でも同じことを繰り返し、更に「本当に分かったかどうか分からない。『現時点では分かった』というしかない」といった、些か以上にひねくれた表現の結論を出す。
自然科学者としてなら優れた姿勢、とほめられるべきところですが、初等、中等教育でそれをやるのは人格形成の面で問題です。
「またまた、そんな大袈裟な」と言われそうですが、冗談ではない。これこそ「地獄への道は『善意』という名の敷石で『敷き詰められている』」ことの実例、です。
「差別的な言葉だから、せめて漢字を平仮名にして、意識しないようにしよう」
「難しい言葉だから、分かりやすく言い換えてやろう」
どちらも思考停止への、優しく甘美な誘いです。
こんなのもありましたよ。
「体そう」。これは分かりますよね。「操」は、まだ習ってないから。
じゃ、これは?「お水」。「おすい(汚水)」と読むのだそうです。「汚」は、まだ習ってないから。
笑って済ませるでしょう?同時に「これ、変」と思うでしょう?
でも「疑問」を「疑い」と言い換えるとなれば、「いいんじゃない?」となっていませんか?
そういう小さなことの限りない積み重ねが文化であり、だから、「これくらい」が積み重なって文化は変質していく。
「これくらい」という姿勢なら、たとえば三宅センセみたいな人が「そんなこと言うもんじゃありません!」って叱ってくれるけれど、良かれと思ってやっていることになると、「まあ、悪気はないんだから」となってしまう。
でも、「地獄への道は『善意』という名の敷石で『敷き詰められている』」、ということになるんです。
その伝で言うと、「義援金」と「義捐金」どちらが本当なのでしょう。
この言葉が初めて遣われたのは明治時代で、その時は「義捐金」。
「義援金」は「(正しい)意図を以って社会を援けるための金」ということでしょう。
「義によって助太刀致す」、みたいな感じでしょうか。
今は「義援金」が普通の言い方です。実際、辞書を見ると、「義捐金」の方に▲がついている。常用漢字ではないので、ということです。
でも、本来は「義捐金」。「意図を以って、社会に金を捐(すて)る」。
何故、「義援金」、になったのでしょうか。日教組は直接にはからんでいないと思われます。それよりも、根底に「日教組的な考え方」が流れていると見て良いのではないでしょうか。
「日教組的な考え方」というのは、ここまで書いてきたことから分かっていただけると思いますが、「歴史、文化に思いを致すことなく、現時点を中心として物事を裁決する(浅はかな)考え方」を言います。更に付言すれば、基本は「良かれと思って」、という姿勢。
正しい語句、正しい意味合いで以て物事を考える。日本人として正しい日本語の語句で、その正しい意味合いで以て物事を考える。それが「社会に参加する」「社会に参加する実力を持つ」ということです。
安易な言いかえ、大雑把なものの見方・捉え方でまともに「社会を継承、発展させる」ことができるでしょうか。
お気づきの方もあるかと思います。実は、これ(物事を易しく言い換えようとする)、日本人の本来持っている考え方の一面でもあるのです。何でもかんでも「良かれ」と思って、やる。「小さな親切」なんです。
でも、される方にとっては、ただの「おせっかい」なんだから「大きなお世話」。
「日韓併合」が一番分かりやすいことでしょうか。日本人の方からすれば「朝鮮、韓国は恩を仇で返す」と怒りますが、あっちにしてみれば、「ハングルなんか広めてくれなくたってよかったのに。みんなが権利を主張しはじめて、いい迷惑だ!(元両班)」ってなもんです。
最近は「ハングルを日本が取り上げようとしていた」みたいなことまで言ってるけど(こちらは併合後、棚ぼた独立を手に入れたにもかかわらず、反日教育を受けた結果)、全ての国民が思っている。また脱線。
他人に親切にする。思い遣りを以って接する。自分のことは少々犠牲にしても、相手のために良かれと思ってそうする。そうすれば周りはほめてくれるし、しなければ白い眼で見られる。
悪く言えば世間体、人目を気にし、良く言えばお互いを律して来た。
これは、良くも悪くも間違いなく日本の一面です。日教組の教育にも、だからちゃんとその名残がある。
「捐」=「捨てる」 →捨てられた金をもらう=乞食根性
「援」=「援助する」→手助けをしてもらう =困った時はお互い様
「ほら!だったらそれでいいじゃないか」となりそうですね。
ところが「傾城阿波の鳴門」のあの「巡礼に御報謝~」。「御奉捨」が本当なんだそうです。「捨」の前に「奉(たてまつ)る」、が付いている。そして僧や巡礼に布施をすることを「奉捨」或いは「喜捨」と言います。
「捨」というのは、「要らぬ物を捨てる」ということではなく、大事なものを喜んで差し上げる、という意味になります。
確かに「巡礼に御報謝~」なんて言ったら「巡礼の俺様にお礼を言え~。布施を受けてやってるんだからなぁ~!」
何故そんな「奉捨」なんてことをするのか。
「在家のため、動くに動けない自分、の代わりに尊い仏道修行をして下さる。だから、喜んで!」ということのようです。
「捨」は自ら進んで大事なものを投げ出す。それをもっと大きなことのために使ってもらう。「貧者の一灯」に近い、潔い心持です。
「援けようなんておこがましいことは思っていませんよ。このお金は貴方の良いように遣ってくださいよ」
そうなると、「義援金」と「義捐金」、これまでとは違って見えてきませんか。
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