伊勢正臣という方の小論です。最終(三回目)の転載です。
わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
頂門の一針 6098号
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2022(令和4年)年 4月5日(火)
国柄探訪: 奴隷の平和か、大御宝の平和か:伊勢雅臣
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頂門の一針 6098号
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2022(令和4年)年 4月5日(火)
国柄探訪: 奴隷の平和か、大御宝の平和か:伊勢雅臣
■6.駐日ロシア公使夫妻の感激
「真の平和」を希求する人は、いざ戦いになったら雄々しく立ち上がりますが、それは相手を憎んでのことではありません。そのことを、駐日ロシア公使だったローマン・ローゼン夫妻が東京から引き揚げる際の体験から語っています。
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欧洲大戦の時には、べルリンのイギリス大使館には石を投げられ、暴民は鬨(とき)の声を挙げて押し寄せた。また同じベルリンを引揚げるロシア大使は途中ある停車場では暴民等に罵言をあびせられ、唾を吐きかけられる等、あらゆる暴力を加えられた。文明国と称する国といえども、いよいよ戦争となると敵愾心(てきがいしん)の高潮する結果、国民の間にこのような野蛮性が往々にして現われてくるのである。
然るに日露開戦の際にはどうであったか。我が国民の憤慨は、多年ロシアの圧迫政策に対して極度に達し、国民の敵愾心はいやが上にも高潮していた。
だが、敵国公使がいよいよ東京を引揚げるという際には、あらゆる好意が彼らに寄せられたのである。[渡辺、p156]
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伊藤博文は、元老の立場上、公然とローゼン公使と会うわけにもいかなかったので、ベルギー公使に託して丁重な告別の辞を届けました。公使と親交のあった榎本武揚公爵は病身を推して別れの挨拶に来て公使を感激させました。
最もローゼン公使夫妻を感激させたのは、皇后が女官を通じて、餞別の品として銀製の花瓶を贈られ、それに添えて次のお言葉を賜ったことでし た。
現代語訳のみ掲げます
「今回不幸にして両国の和親が破れるに至ったので、公然と送別することが 出来ないのは、まことに残念ですが、夫人とは多年懇親を重ねてきたので、女性の情として今、見過ごすことはできません。ここに侍臣を通じて送別の辞をお送りします。両国の国交が旧に服する際には、再び夫人が東京に来られんことを切望します。」[渡辺、p156]
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ローゼン公使夫人は、皇后の温情に感極まって、涙を流しました。
■7.「奴隷の平和」か「大御宝の平和」か
明治天皇は開戦の前に、次の有名な御製を詠まれています
四方の海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
(世界の海 がみな同胞だと思っている世の中で、なぜ波風が立ち騒ぐのだろうか)
しかし、明治天皇はどこから、このような理想を得られたのでしょうか? そのヒントは明治元年、明治天皇の即位のまさにその年に発せられた五カ条のご誓文とともに、国民に出されたお手紙の中にあります。
「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」(国内のすべての人々が、たった一人でも、その人にふさわしくない場所に置かれているようであれば、それは皆私の罪です)という一節です。
国家という共同体の中で、国民一人ひとりが様々な個性や能力の違いはあっても、それぞれが「処を得て」互いに力を合わせていく、それが一人ひとりの幸福への道であり、また共同体全体の平和と繁栄の道である、という「大御宝」の理想です。
これを国際社会に広げて考えれば、多くの国が、大小、貧富、文化の多様性はあっても、それぞれの国が「処を得て」、善隣関係を結び、助け合っていく。それが国際社会の理想だという考え方に通じます。
この「大御宝の平和」をよく理解してこそ、「奴隷の平和」を拒否して必死に戦うウクライナ国民、数百万人の難民も積極的に受け入れるポーランドなど東欧諸国の奮闘にも共感できるのです。
戦闘さえなければ「平 和」だという考え違いによって、我々の子孫にかつての東欧の人々を苦しめた「奴隷の平和」をもたらしてはならないのです。
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