20代の初めて活弁に出逢った時、私は伯父伯母の家の一部屋を間借していました。
興奮して帰った私の「活弁ってね、無声映画ってね、こんなに面白いの!私、これやりたいと思って!」という話をまっ先に聞いてくれたのが伯母、そして伯父でした。
「あんた、またそんなこと言って」
「おじさんも観た事ねえなあ。まだやってる人、いるのか」
伯母は母方の6人兄妹の長女。伯父とは鶴岡の高校時代に知り合い、テニス部の部長どおし意気投合して、20歳前後で親の反対を押し切って上京し一緒になりました。たくさん苦労はあったけれど(苦労を共にしたからこそ)、60歳を過ぎてもペアを組んでテニスの試合に出るようなとても仲のいい夫婦でした。なんだかんだ言い合いは絶えないのですが、同じくらい笑いも絶えない、仕事上でも趣味でも家庭でも、すべてにおいて生涯のパートナーでした。
血の繋がらない姪っ子を約一年、家族の一員のように受け入れてくれた伯父。
「気兼ねはいらないからね、我が家だと思ってな。御飯はたくさん食べなさい。」
いつもそう言いながら、一番気を使ってくれていました。
夕食時はニュースが中心、伯父の好きな番組を観ながらあれこれしゃべって
伯父が寝た後、伯母の内職を手伝いながら、映画のビデオを観て、二人でおしゃべりする
楽しい思い出が蘇る、私にとってとても大事な一年は、伯父伯母にとってはとてもたいへんな一年でした。たくさん負担をかけました。
大学に入学した時、初めての一人暮らしの部屋を探してくれたのも、不動産の仕事をしていたその伯父でした。
頑固で、ときどき言葉はきついけど、誰より面倒見がよく、気遣いの細かい伯父は、たくさんの人に愛情と思い遣りを刻んで逝きました。
通夜や告別式は、亡き人に引き合わされた人々が、その人を偲びながら、彼の生前の姿、言葉、生き方から学び、横の絆を、また過去から未来の縦の道筋を、繋いでいく場なんだと、昨日今日は伯父に教えられた気がします。
伯父さん本当にありがとう。
そして今日は、春翠先生の命日。
興奮して帰った私の「活弁ってね、無声映画ってね、こんなに面白いの!私、これやりたいと思って!」という話をまっ先に聞いてくれたのが伯母、そして伯父でした。
「あんた、またそんなこと言って」
「おじさんも観た事ねえなあ。まだやってる人、いるのか」
伯母は母方の6人兄妹の長女。伯父とは鶴岡の高校時代に知り合い、テニス部の部長どおし意気投合して、20歳前後で親の反対を押し切って上京し一緒になりました。たくさん苦労はあったけれど(苦労を共にしたからこそ)、60歳を過ぎてもペアを組んでテニスの試合に出るようなとても仲のいい夫婦でした。なんだかんだ言い合いは絶えないのですが、同じくらい笑いも絶えない、仕事上でも趣味でも家庭でも、すべてにおいて生涯のパートナーでした。
血の繋がらない姪っ子を約一年、家族の一員のように受け入れてくれた伯父。
「気兼ねはいらないからね、我が家だと思ってな。御飯はたくさん食べなさい。」
いつもそう言いながら、一番気を使ってくれていました。
夕食時はニュースが中心、伯父の好きな番組を観ながらあれこれしゃべって
伯父が寝た後、伯母の内職を手伝いながら、映画のビデオを観て、二人でおしゃべりする
楽しい思い出が蘇る、私にとってとても大事な一年は、伯父伯母にとってはとてもたいへんな一年でした。たくさん負担をかけました。
大学に入学した時、初めての一人暮らしの部屋を探してくれたのも、不動産の仕事をしていたその伯父でした。
頑固で、ときどき言葉はきついけど、誰より面倒見がよく、気遣いの細かい伯父は、たくさんの人に愛情と思い遣りを刻んで逝きました。
通夜や告別式は、亡き人に引き合わされた人々が、その人を偲びながら、彼の生前の姿、言葉、生き方から学び、横の絆を、また過去から未来の縦の道筋を、繋いでいく場なんだと、昨日今日は伯父に教えられた気がします。
伯父さん本当にありがとう。
そして今日は、春翠先生の命日。