【ミノルフォンで最大のヒット曲。星影のワルツのシャケットだ。】
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これも遠い昔のお話。でも、昔があるから現代がある。
私が小学6年生の時、歌謡界に革命的なことが起った。
亡き遠藤実さんが昭和40年に、コロムビアの
専属作曲家から独立してレコード会社を設立した。
遠藤さんは、数多くのヒット曲を出した作曲家として
有名だが、これはもう一つ大きな足跡を音楽界に
残したのだが、知ってる方も今では少ないと思うのだ。
日本では8社目のレコード会社「ミノルフォンレコード」を
設立したのだ。当時、小学6年生だった私は、
夏休みのプール帰りに立ち寄っていた、たこ焼き屋の月間
「明星」でこのことを知り、当時、癌で医大に入院していた
父に懇願し土日外泊の時、購入してきてもらい
所謂、和歌山市からのお土産の「明星」の歌本を
隅から隅まで読み漁って、歌ったのであった。
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遠藤「実」と英語で音のフォンを合わせた名前が、
ミノルフォンレコードの由来である。
その当時の常識を覆す、歌手も作詞家、作曲家に新しい
活動を与える場所を作って、音楽界に貢献したいという
つもりで作られたのであった。
スポンサーは、20代の遠藤さんが流しをやっていた頃に
知り合い、親しくなった、太平住宅の中山社長で
「太平グループ ミノルフォンレコード」と
ジャケットの中には書いてあった。
最初のプレス盤には、シングル盤でありながら33回転で、
A面曲、A面曲の伴奏、B面曲、B面曲の伴奏という
それまでにはなかった形で発売されたのである。
(今のCDシングルの形態とほぼ同じだ。
ちなみに「聞いて楽しい、歌って楽しい
ミノルフォンレコード」というコピーが
レコード袋に入っている。その時代の最先端だ。)
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クラウンの場合と違い、ミノルフォンは歌手は新人、
作詞、作曲家も遠藤さんの弟子ばかりであった。
品番第1番は、三船和子さんの「ベトナムの青い月」。
翌年「他人船」をヒットさせたが、43年に交通事故に会い、
声が出なくなり引退してしまった。
後に東芝EMIに移籍して「だんな様」でカムバック。失意の
三船さんを支えていたのは同じミノルフォンの歌手で
「男鳥」という歌うを歌われた辰巳晴也さんである。
辰巳さんが「だんな様」のモデルである訳だ。
話が三船さんに偏ったが、同時に
「酔いどれギター」(大木英夫)、「君が好き」(千昌夫)
「青空乙女」(丘千恵子、翌年16歳の若さで謎の自殺を
遂げた悲運の歌手。合掌)などが初回の
プレスのレコードであった。
ミノルフォン・ヒットパレードなる歌番組もあったが、、、。
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案の定、経営は芳しくなかったようだ。でも、、、。
ある日、モデル事務所からハーフの美少女を
歌手デビューさせたいから曲を作って欲しい
という注文を受けたのだ。
このハーフの少女こそ十代の頃の山本リンダさんだ。
遠藤さんは、リンダさんに「君にボーイフレンドはいるの?」と
尋ねたら、リンダさんは「困っちゃうな」とつぶやき、
これを聞いて遠藤さんは一気にあの「こまっちゃうナ」を
作曲と同時に作詞も手掛け、
ミノルフォン最初のヒットとなったのである。
(ちなみに、千昌夫さんの「星影のワルツ」の方が
レコードは先に発売されていたのだが、
ヒットしたのは昭和43年になってからである。
「星影のワルツの品番は第39番である。)
その後、「遠藤メロディーを歌いたい」と田端義夫さんが
移籍し「出世船」を出し、三沢あけみさんも43年ごろに
移籍し「天国の恋」という歌を発表した。
他には「学生ブルース」(千昌夫、富和彦、浜君夫)
「新宿そだち」(津山洋子&大木英夫)
「ちいさなプリンセス」(西崎緑。当時8歳、
「ポニョ」の大橋のぞみちゃんと同じ感じだったよネ。)
「土佐のひと」(二宮善子)、誰にも云わないで」(愛川みさ)
「わが青春に悔いなし」(ジョイベルス東京)などがあり
五木ひろしさんも「三谷謙」名義の唯一のレコード
「雨のヨコハマ」を出しているのである。
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ところが、「星影のワルツ」のヒット後まもなく
中山社長が、急死し遠藤さんが専務から社長に就任した。
奮闘空しく昭和45年にミノルフォンは徳間書店に経営権を
譲り「徳間音工」に変わり、後に「徳間ジャパン」に変わり
現在に至る次第だが、遠藤さんの経営者兼音楽家と
しての心意気はもっと評価されてもいいと思うのである。
ミノルフォン発売のレコードは全て遠藤さんの作曲だから。
そう、勿論、千昌夫さんの「星影のワルツ」。
大切な小遣いを叩いて、レコードが擦り切れるまで聴いた。
今年の春、「JA共済友の会のつどい」のゲストが
千昌夫さん。とっくに還暦を過ぎているのに
見事なステージでした。ヒット曲を数々歌ったのだが
デビュー曲はさすがに歌わなかった。
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この時、「君がすべてさ」の歌に私は改めて
その良さを知ったのである。
新進気鋭のミノルフォンレコード。
岩手県から遠藤さんの門を叩いた千昌夫さん。
そう、出来るべきして出来た歌だと思ったのだった。
そこで、好奇心旺盛のまっちゃん。
「君がすべてさ。」を歌ってみました。
そして、おまけにYou Tubeとしてアップしてみました。
昭和の良き時代。挑戦する価値のあった時代を
感じた次第。今の世も挑戦が大事だと思っている訳だ。
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それでは、masaringの「君がすべてさ。」2012。です。
良かったら、↓を見て聴いてくださいネ。
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YouTube: masaringの「君がすべてさ。」2012。
↑の画像、もしくは文字をクリックして見て聴いてください。
当然、オリジナルの千さんには、遠く及びませんが、、、。
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昭和の良き時代のことを、またもや思い出した次第だ。
【困っちゃうな。の次は詞を一般公募。ミニミニデート。私、所有。】
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