【今回は私の地域の民話。民話を次代に伝えるのも大事だね。】
先ずクリックして歌を聴いてネ。
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流れついた神様のテーマ。
むかし むかし そのむかし
紀の川を ざんぶり 紀の川を ざんぶり
流れついた神様 神様のお話
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地域の民話を地域のこども達がミュージカルで演じた。
冒頭の歌はこのミュージカルのテーマソングだ。
私のライフワークのひとつの第一弾の元はこんな民話。
むかし奈良に都があったころ、八歳の聖徳太子が
薬師如来の仏像を一夜のうちに作りました。
この仏像は、聖徳太子の父・用命天皇から十九代の間、
大切にまつられてきました。
今から七百年も前、わが国は南朝と北朝に分かれ
戦が起こりました。後醍醐天皇は戦をのがれて
大和の国・吉野に宮殿をうつされました。この宮殿を
吉野の人々が力を合わせて守りました。
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天皇はお喜びになってお礼として、薬師如来の仏像に
正一位大明神の高い位をおくり、大和の柏木村へ
氏神として授けられました。
延徳三年(1491年)、村の人々が森の木を切り出したところ、
翌年に恐ろしいはやり病が広まり大勢の人が亡くなりました。
村の占い師は「これは氏神さまのたたりだ。」と申しました。
村の人達は、「俺たちを守ってくれない神様なんかいらない。
村から出て行ってもらおう。」と言うことになりました。
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その明くる年、この仏像にニワトリのもんのひたたれを着せて
はねつるべの井戸に入れて責め苦しめた上、真夜中に
吉野川に投げ入れました。仏像はやがて紀の川へと
流れて行きました。
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それから三年後のある夜、紀州滝村の桂川さんという人が、
「大薮村のあたりに、仏像が流れついている。」と、
夢で神様のお告げを受けました。
桂川さんは、さっそく山を下りて紀の川の畔へやって来ました。
川岸であちらこちらと探したところ、少し川上の中洲に
どうもそれらしいものが目に入りました。
急いで川をわたり、こもの包みを開けてみると
やっぱり仏像でした。
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桂川さんは不思議な夢におどろきながら、仏像をきれいに
洗い清めました。帯で背負い野道を帰って行きました。
途中、柏木村の宮の岡というところの大きな石の上に、
仏像を下ろして、ひとやすみしました。
ふたたびこの仏像を背負おうとすると、石の上におすわりに
なったまま動きません。いたし方がないので、桂川さんは
仏像をそこに残したまま滝村の家へ帰りました。
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その後、柏木村の左近さんという人が、仏像を大石のすぐ北の
小高い丘へ移しました。大きなクスの根元に、小さな祠を建てて
おまつりしました。これが紀州の柏木神社の始まりです。
江戸時代の初めごろ、正一位大梵天王宮の位を受けてから、
この神社を「天王社大明神」とも呼ばれています。
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お宮の神様が薬師如来の仏様であるということは、
まことに、めずらしいことなのです。
薬師如来様は、この紀州の柏木村が大和の国の柏木村と
景色が大変よく似ているので、懐かしく思われたのでしょうか。
大きな石の上から動かなかったのも、この土地に心ひかれて
御座所と決められたのでしょう。本当に不思議なことです。
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お社の宮ノ岡は日当たりのよいところで
紀の川までながめることができます。
流れついた神様をおまつりしてから500年の間、氏神さまに
守られて、村の人々は平和な日々を過ごしています。
このお話。24年前に初演。6年間隔で4回上演した。
ストーリーを楽しくするため少しずつ脚色を変えたが。
現在。大和の柏木と紀州の柏木の交流があるらしい。
人々は歴史を刻みながら、今を生きている。
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むかし むかし そのむかし
紀の川を ざんぶり 紀の川を ざんぶり
流れついた神様 神様のお話
それでは、最後にもう一度この歌。下↓をクリックしてネ。
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【人の心は移ろいやすい。でも花の心で次世代に伝えたい。】