波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

北の街で  №18

2012年12月25日 | 新聞掲載

 先日、礼文の小学校を舞台にした評判の映画を妻と観た。巧みな脚Photo 本や演技もよかったが、最北の風景に圧倒された。雪の利尻富士に息を飲み、見知った町並みや海岸線で思い出が交錯した。私たちの歩いて来た道が、稚内と礼文だ。
 「稚内」と口にしたら、何を好んで、都会がもっと遠くなる北なんだと言われた。遠別から北は米が穫れないから人情が荒いという助言もあった。天売島の小学校が振り出しの教員生活で、次の希望地を聞かれた時だ。私も妻も20代半ばだった。
 その一年ほど前、羽幌で偶然、宗谷の話を聞いていた。若い私には難解な教育講演だったが、深さとロマンは感じた。北で修行を積んでから南へ帰っても遅くない、と思った。広大な宗谷も、活気ある稚内のことも、赴任するまで何一つ知らなかった。
 だが、勇んで赴任した稚内の中学校が荒れ、薄っぺらな教育観はすぐに吹き飛ばされた。出来ることは、ここから逃げない、という覚悟だけだった。必死だった。
 少しわかったことがある。人が人らしく生きるには、知恵と温もりとたくましさが必要なことだ。宗谷の自然と風土は、それを子どもに教える教材の宝庫だった。だが、素材が良質な分、上手に使いこなすには、大勢の協力が必要なことだ。
 こんなことを考え始めた頃なのだろう。稚内で老後を送ることに、何の疑問もなくなっていたのは。(21/24北海道新聞「朝の食卓」)

波風立男宛のクリスマスプレゼントが届いた。詳細は姉妹ブログ「波風食堂、準備中です」参照。

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親友  №17

2012年12月05日 | 新聞掲載

  交際歴43年の親友がいる。ご飯も作ってくれるし、身体の心配もしてくれる。17 戸籍上は妻だが、人間関係では親友だ。1年前の今頃、無事に定年退職を迎えられそうな安堵感で、何気なく私たちの関係を話題にしたらそう断言された。そのどこが悪いという毅然とした態度で通告された。

 この親友は、生まれ変わったら樹になりたいと言う。あなたも好きにしたら、なんて言う。目立たず静かに暮らしたいそうだ。ふん、何てつまらない奴だ、苦労して美味しい実をつけても、自分は口にできないじゃないか。そう思った拍子に、私はその樹の樹液や実で生かされてきた虫か獣みたいな気がしてきた。ひしと樹にへばりついて雨露をしのぐ小さな姿が浮かんだ。
    先日、親友が、「飼っていたウナギが死んで家族で泣いたんだって。蒲焼きなんか食べられない家だね」と新聞を読みながら真面目な顔で言う。私はというと、退職記念でいただいたレトロな雰囲気の小さなラジオを、「ロケットラジオだってさ。ネーミングも昭和だ」なんて喜んでいた。よく見直すと、ウナギでなくウサギ、ロケットでなくポケットだった。なるほど、老後は目の衰えと早とちりから始まる。

 昔話は、「そして、お爺さんとお婆さんは仲良く暮らしましたとさ」で終わる。この2人が親友だと思うと何だか若々しく感じる。良いかもしれない、親友も。(12/4北海道新聞「朝の食卓」)

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この12月で2年目になるこのブログ、生活の一部になってきた。3日更新しないと少し気になり、5日ぐらいで落ち着かない。 そんな時、凡師さんが埋めてくれる(笑)

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確かな学力  №16

2012年10月28日 | 新聞掲載

 彼の顔がゆがんだのは、「君だけは残業代があたらない」と、私に言われたからPhoto だ。「夕焼け空から星も月も見える夜中まで働きました社長さん、ではだめだ。時間を言えなければ」と、私は突き放した。
 小学校で、自動車製造工場の仕事を教えた時だった。夜間の労働は、昼間に比べ高い賃金がもらえる話をした。酪農地帯の子どもたちは驚いた。「それ欲しいなあ」と、思わず彼がつぶやいた時のやりとりだった。
 「時計の勉強をやり直すかい?」と促すと、涙のこぼれそうな顔でうなずいた。今までずうっとわかりたかったのだ、きっかけを失っていたのだ。彼の真剣な努力を複式学級のみんなで応援した。そのごほうびだったと思う。彼もみんなも、そして私も、なぜ勉強するのかを劇的に学んだ。
 彼の、授業中の立ち歩きや、休み時間の勝手な延長がピタリと止まった。「時間」を理解したことで、生活にめどをつけられるようになり、心構えや辛抱を覚えた。所作に余裕が、表情に自信が生まれた。この変化に私たちは驚いた。勉強とは、人が人らしく生きる知恵を手に入れることだった。誰かに勝つためではないのだ。1人の「わかった」が、みんなの幸せにつながることを私たちは深く心に刻んだ。
 私は、老後人生の残された時間を知らない。ただ、「わかった」が足りないことは知っている。これから何とかしなければと思うと、この時のことが浮かんでくる。 (10/27北海道新聞「朝の食卓」)

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競争原理が支配する「グローバル社会」。過酷な競争が子も先生も追い詰める。教育は誰にとって大事なのか…思考停止したら終わり胃がん切除で2ヶ月入院も3年前に。退院の足で病院横のそば屋へ。これを記念し10月26日は波風家「鍋焼きうどんの日」。さっき決定。

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おいしい記憶 №15

2012年09月18日 | 新聞掲載

 あのころは、食べることに真剣だった。Photo
 隣の家でごちそうになったカレーを、うちでも作ってほしいとねだった。その豪華さを何度も説明したら、「竹輪がたくさん入っていたんだね」と、母が念を押した。
 「なるきちおんじゅ」を食べたいと困らせたこともあった。食堂から盛大に煙が流れていた。遊び疲れ、夕食前の私たちは、ラジオ体操よろしく深呼吸し、何とも魅力的な匂いで、未知の味を想像した。看板「成吉思汗」の読み方をいまだ知らない小学生のころ、東京五輪の少し前だった。
 何かの幸運で口にした新しい味覚は、仲間うちで自慢しあった。赤いナポリタン、黒いコーラ、黄色いバナナやチーズは、茶色いキンピラなんかとは住む世界が違う味がした。しかし、好き嫌いで、三度のご飯を食べ残すようなことはなかった。そういう子どもは、絶対にバチがあたるからだ。
 最近、食べ物の思い出話が多いと妻が笑う。この手の話が尽きたら、生きる欲も力もうせ、お迎えが近い証拠だと反論する。食と密着した、家族や仲間との喜怒哀楽の記憶だから、幼い体験でも忘れられない。
 昔が良かったとは言わない。だが、つましい暮らしの中で、子どもは子どもなりに大人を手本に、身近な喜びを分かちあい、明るい未来を信じていた時代だった。
 ところで、前は仕方なく口に運んでいた茶色系、フキの煮つけや高野豆腐みたいなのが、なぜか年々好きになっている。(9/18 北海道新聞)

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この日の道新記事、1面に「中国漁船1000隻 尖閣へ」、「検証2大政党 民主失敗から学ばず」。社説は「大震災1年半 復興に勢い取り戻せ」、「少年厳罰化」。日ハム首位が西武に1.5ゲーム差で首位、残り14ゲーム。地方版に稚内大谷高全道(秋季戦)へ。社会面に兵庫の高2自殺事件、心の電話相談最多、北朝鮮拉致など。

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大学の階段   №14

2012年08月09日 | 新聞掲載

 丘の上に赤れんがの大学がある。だが、そこで何が行われているのか私は長Photo_2 く知らなかった。「子育て運動の街」稚内の教員として失格かもしれない。大学の敷居は昔から高い。恥ずかしい話だが、最近まで単位不足の悪夢で何回もうなされていた。

 少し変わったのは、大学のすぐ下の中学校へ転勤してからだ。大学で作文を教える機会があった。数学の楽しさを中学生に伝えたい、大学を応援してくれる稚内に貢献したい、という青年たちの熱い思いを知った。生徒と学生の行き来が始まった。遠足をもじった進路学習の「近足」では、「大学生ってすごい。僕たちが絶対に理解できない授業を真面目に勉強している」という感想があった。豊かで真剣な学問の世界を肌で感じることは、若い時ほど大切だ。
 近くて遠い学校が、近くて近い学校に変われば、近道の斜面に道ができ、そこに階段ができるかもしれないと生徒に話した。すると、PTAが鉄製の階段を作ってくれた。往来が急増した。道内初の「公設民営」が、この大学の出発点だったことを思い出した。

 先日、社会人になった教え子が学んでいる夜間授業をのぞかせてもらった。アフリカの「子ども一人育てるには村中の人が必要」ということわざを教わった。この街の精神を、この大学で実らせたいと強く思った。外は暗くなったが、眼下の街の灯に照らされたあの階段が教室の窓から見えた。(8/9 北海道新聞)

今回は苦労した。書きたいことをもっと絞る必要が…と思いつつ時間が無かった。触れておきたいと前から思っていた大学のことを何とか書いた。

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