波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

2022反省

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の目標

難しいことを兀々と」(「兀々」は「こつこつ」と読み「パイパイ」ではありません)に即して暮らしの3要素「ひと・こと・もの」で年末ジャンボ大反省してみる。


ひと   
ずうっと引きこもって暮らしていたら一瞬だが秋に突然明るい世界に引っぱり出された。面食らったが、安心して引きこもる切符(仙人暮らしの)をもらった感じがした。あと、2人に「間違いなく病気だ。すぐ見て貰いな」というのと「病気をなめてる。努力しないのなら縁を切る」と真剣に言い放ち結果オーライだった(アブナー)。義母の死や80代知人の病気を前に、健康的に逝かなければ駄目だと痛感。
こと なんと言っても4月からの「食べ過ぎない」だけの体重・血圧の管理。これだけで、20年来のメタボリック脱出。おかげで昆布干しアルバイトが楽になり、家事で腰を上げるのが早くなった。今年一番の変化というか努力したことがこれ。
もの 悲願だった、畳表替え、布団打ち直し、玄関網戸設置、できた。こういう作業見るのが好きだから横目でチラチラ楽しんだ。自身では一夏「立体落書き」と「自動車塗装」(出張作業もあり)で遊び続けた。成果は、「今あるものを大事にして使い切る」気持ちが前より強くなったこと。それと通じるような気がするのは、「少しでも長生きできれば、片方が亡くなっても1人で暮らす時間が短くてすむ」と言う真理。

今年の反省
を書いていると、波風氏の求めている価値観みたいのがうっすらと透けて見える。要するに、「流されない+偏らない+慎ましく=カッコ良い」のようだ。来年はここらをもっと目に見える形にしたい。今回は毎年目標のピアノなどできなかったことや家族が集まれなかったなどの残念なことは省いた。だが、「やれたこと」が多かったのは身体の変化があるからだろう。生来の「食べず嫌い」も少し治ったし。


あのタモリ氏が来年はどんな年になるかと聞かれて少し考え、「新しい戦前」と答えた(TV「徹子の部屋」)。漱石の『三四郎』で、日露戦争後の日本をあっさり「滅びますね」と言った広田先生の言葉を思い出した。公約の所得倍増を軍事費倍増にすり替える政権、そこまでされてもまだ黙ってる国民、そうなったら漱石が的中させた予言と同じ。今度は「タモリの予言」か このブログで何回も書いた「ごんぎつね」みたいな先輩が今年の春に山菜採りで倒れ、入院、療養、転居。自宅も今週初めには撤去された。らしいな、後を汚さず、手早い。始末の仕方を教えてくれた画像は「変顔時計」。自分で作って自分が癒やされている。

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戦争に惹かれる無知

2022年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム


わかっているようで
実はわかっていない。そんな面倒なことを、長々しい説明でなく短い言葉で言い切ってくれると何とも言えない快感。直感的に受け入れ可能を判断し、縦横斜めから「大丈夫かな?」と考え、「そうなんだよ、前から俺もそう思っていたんだよ」なんて調子良く自分の考えにしてしまう(笑)。深い体験と慎重な言葉の訓練が薄い波風氏だからそれは仕方無いこと。
そんなことを強く思う精神科医・中井久夫氏の戦争と平和についての箴言。少し面倒かもしれないが読んで見て欲しい。


○戦争は進行していく過程、平和はゆらぎを持つ状態。
○戦争は始まりと終わりのある有限期間の過程。勝敗にいかに寄与するかが問題でわかりやすい。
○平和は無際限に続く状態。だからわかりにくく、目に見えにくく、心に訴える力が弱い。
○平和が続くと見通しが利かず将来像がはっきりしなくなる。大事件が起きず退屈感をうみ人を惹きつける物語にならない。
○平和が珠玉のごとく見えるのは戦時中、及び終戦後しばらくであり、平和が続くにつれて「面白いことはないかなあ」と当然視され「平和ボケ」と蔑視される。
○人間が端的に求めるのは「平和」よりも「安全保障」・・・・安全への脅威は探せば必ずいくらでも見つかる。完全なセキュリティーなどない。
○「安全保障」が平和維持とは限らない。「安全の脅威」こそ戦争準備のスローガン。
○戦争には自己収束性がない。戦争は自分の後始末ができない。
※原著でなくテキスト、その一部分抜粋。

 

波風氏は戦争を知らない。
だから戦争を語る言葉を持っていない。戦争もそうだが戦争を生む政治、経済、法律、文化・・・・に関心が無いわけじゃ無い。ウクライナの悲劇も、我が国の軍事拡大一直線も他人ごとではない。だが、心に刻まれた抜き差しならない戦争の言葉を持っていない。では平和を語れるかというと、それは「わかりにくく、目に見えにくく、心に訴える力」を持たない気がする。戦争に比べて無責任というか楽天的な感じがして、それはそのまま戦争に惹かれる要素とも感じざるを得ない。波風氏よりも若い、もっと戦争から遠いはずの方々が「安全保障だ」、「軍事費1.5倍だ」とやっている。
リアリティーのある平和論を持っていない波風氏は、「それなら感覚にピタッとくる言葉に触れ続けなくては危ないなあ」と思っていた。そんな時の中井久夫氏の言葉だ。


波風氏の父親(享年29歳)に佐世保への出頭命令書が来ていた。確か1945年8月15日以後の期限だった。話を聞けたら戦争のイメージが今とは違うと思う コロナワクチン接種5回目。微熱出て2日間寝ていた。これで1勝4敗(平熱1回:発熱4回)  画像は割合にスタスタ歩いて買い物から帰り路の老夫婦。男の方が少しでも重たいものを持たせろと言い、女の方が平均に分けようとする。

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椎名誠著『遺言未満』を読む

2022年12月22日 | 読書

椎名誠(78歳)
の「逝く前」の心づもりを読めて良かったなあ。『遺言未』を図書館で借りて読み、自分で買って7割読み、少し時間置いたので最初から読み直している。貴重な本で大事な作家、何がというと、知りたかった「一人で暮らすことの心構え」をほぼ網羅。「死ぬ」とは何か、骨の行き先、葬儀の希望・・・。生涯不変青年みたく思っていた著者の、世界観というか人生観、死生観に圧倒される。古稀に際し、こんなふうに脳を刺激し役立つ作家を知らない。

 

妻に先立たれたら
と思うと、うろたえるほど恐ろしい。自分の方が確実に先に逝くという思いに確証はない、なんていう箇所に線を引いたりする。重要という意味でなく、「俺と同じだ」と安堵する気持ちを記念して(笑)。続く「やがてくる死を思うと辛いけれど、いきてきたことだって辛いことが多かった。でも生きていて辛いことの中にはそれに勝る楽しいことがあった。」の箇所にも前より強く線を引く。今という時代は、来たるべき「どちらかのもしもの時」を前にして精神的自立と身辺的自立を肉体的衰退の中で意識して暮らすことなんだなあ。

 

ママヨさんと
「2人が健康でいられたら、1人で暮らす時間が短くできる」と話する。夜に吹雪く予報なので昼前に1時間歩いて用事してきた後。昨日の新聞(12/21朝日)にあった評論家・川本三郎氏(78歳)の寄稿手記「妻に先立たれ14年 悲しみや寂しさは消えずにともにある」も頭にあった。外食中心の食事は、そうしなければ外に出る機会を失ってしまうこと、突然に倒れ病院で栄養失調と言われてショックだったこと、台湾にあるという「老人食堂」が羨ましい・・・・手記は、年とる良さは思い出が増えることでそれは老いの宝物である、と結ぶ。


小学生時代からの愛読書『暮らしの手帖』は、男女に開かれている希有な生活情報誌。何年経っても古くならない役立つことだらけ。ただ、花森安治さん亡き後、表紙デザインの腰が一向に定まらない NHK「のど自慢」で、夫に贈ると唱った女性にアナウンサーが「優しい夫さんは・・・」と語りかけたことに「喝采  鐘3つ」と、前記寄稿記事下のコラム(新聞編集員 )。他人の夫を何て呼ぶ?「主人」絶対反対は波風氏のことを「連れ合い」と言い波風氏にもそれを強くすすめるママヨさん。

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雪で暮らす

2022年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

便利は
楽だが老後にツケが、不便は面倒だが身体を動かす。それを身に染む70歳の今年。5月に体重計新調してから体重管理で遊ぶ。食べ過ぎないのと歩く習慣はだいぶ身についた。胃が小さくなり、外の空気を欲する身体になってきた。画像は、往復5千歩のスーパーの帰り道。買い物入れのリュックは当然として、財布とスマホと高齢者バス100円証、飴ちゃんと塵紙は必須。

 

雪は暮らしの邪魔者のようでいて、便利な面白さがある。筆頭は1時間弱の「除雪」で2000歩身体を動かしてくれる。ジャズを聴きながらストーブの側で本を読めるのは贅沢な時間。昨日、手提げ紙袋に押印する消しゴムはんこ「波風食堂」作ったり、今日のイラストみたくチマチマした工作はやはり冬。生まれてから変わらない雪の暮らし、ずうっと除雪と徒歩ができる身体、冗談でなく亡くなる日まで動作可能な身体ならなんて幸せだろう(それできるなら未だご存命か 笑)。


戦争と平和の捉え方に膝打つ精神科医  故中井久夫の箴言(TV「100分de名著テキスト」で)、こういう知の人がいるから本を読み続ける意味がある お爺さんはウドン、お婆さんはパン。無ければないでご飯食べるがあると嬉しい粉物。ママヨパンのピザトーストで朝、波風ウドンの鍋焼きで夜、このバランスが悪くない朝起きたら窓からの光が明るい、辺り一面が雪で被われたのだ、声を上げて喜び外に出た子ども時代。今はそんなことしないが心のどこかで嬉しがっている(電気代、灯油代上がっても)。

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喪中ハガキの冒頭

2022年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

新しい年
を迎える年末、いわゆる喪中ハガキが届く。高齢化社会の到来は同時に多死社会なわけで、昨日も郵便受けに3通入っていた。今年は義母が亡くなり喪中ハガキを出す家だったので、普段は冒頭の文章などに注意を向けないのだが、あれ?と思った。

喪中ハガキ
は、近親者が亡くなり喪に服するので慶事(新年)の挨拶が出来ないのを知らせるのが目的。それ以上でもそれ以下でも無い。だがいただいた喪中ハガキに、不思議なのが混じっている。目的にあっているのは画像②。出し手側の失礼を述べている。「?」は①で、受け手側が新年のあいさつをするかしないかはあくまでも受け手側の自由意志なのだからこの文面は越権行為で実に失礼。③はそれを「謹んで」行うわけで失礼千万(笑)。一見見逃してしまいそうだが、実は真逆の意味。

ママヨさん
のお母さんが亡くなった今年、波風家も喪中ハガキを出した。以前にいただき心に残った喪中ハガキを思い出し、「新年のあいさつにかえて」で始まるそれに習った。ママヨさんの姉が書いてくれたお母さん99年間の歩みをもとに。言外に、喪中で新年の挨拶を失礼する意を込めて。


「死」に関する事柄、葬式、墓、供養、・・・なにもかもがわからないことだらけ。長男として母親の葬儀を行い、ある意味で後半人生の最大課題を終えたつもりだったが、肝心なことは学んでいない。喪中ハガキもその一つ 今月初めてウドンを作る。寒くて乾燥しているので、ウドン粉1キロに塩30グラム水470グラム(ぬるま湯にして)を加えて足踏み。今は鍋焼きウドンがご馳走。今日の昼は、かき玉ウドンにしようかな。

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