お題『冬の散歩道』で更新。「毎日が休日、いつでも更新できる」境遇が、「だから明日にしよう」にさせる。前は、早朝5時ぐらいに書いていたのに 今日は友だちと『風呂の日』(外食ランチつき)。身体具合の点検含め相互安否確認(笑)月一の予定今日は原稿書かなくてはならない。絶対に、どうしても、無理矢理でも…義理が廃ればこの世は終わりということで 「火葬っつうか」と聞こえたのは「仮想通貨」。どっちも煙と消える。
時々、近所のスーパー往復し一万歩。ママヨさんと昨年秋に買った色違いのダウンの上着と長靴で身を固めリュック背負いお買い物。外に出なければ一日2千歩に足りない日あり、40分の除雪でせいぜい千歩。「老化は足腰から」を意識し、隣の町内にある郵便ポストやコンビニまで歩く。長く歩いた日は嫌いな風呂も楽しい。
文を読んだり書いたりするのもこれに似ている。「老化は言葉から」で、辞書無しは冬の道を裸足か短靴で歩く感じだと思いたい。辞書は長靴だ。かの井上ひさし氏は、字引を使わないのは、料理人が包丁を持っていないこと、車が無いのに運転するのと同じ、文章を書く羅針盤、と断言している。例に、「うとうと」と「うつらうつら」の違いを挙げ、辞書を引かなければわからないだろうと言っている。
大事なのは、言葉に対する曖昧さや傲慢さを恥ずかしいと思うことだ。波風氏は、余命数日がわかったら意味正確な遺書を書きたい。ベットでうんうん唸りながらひょいと予想もしない言葉が浮かび、その意味を介護する方に辞書で調べてもらい、「へーっ、そうなんだ」と喜ぶのも悪くない。毒にも薬にもならないのでなく、怪しい薬より余程身体に良いに決まってる。クスリと笑えば痛くても楽しい。こういう感じが、理想の『変なおじさんの末期』と思いたい。汚物を垂らすより「辞書に涎垂らして果てました」と言われる方が素敵だ(笑)。この広辞苑、大きさと言い高さと言い、固めの枕に使える。(終わり)
付録に岩波文庫風の『広辞苑をつくる人』(三浦しおん著)。広辞苑を成り立たせる、語釈・用例、印刷、イラスト、函、製本の各業界の情報が興味深い。辞書を入れていた黒いビニール袋も粋 「LGB」は好きになる性を表す「性的指向」、抜けていた「T」は性の自己認識を表す「性自認」の概念(先週の朝日新聞から)。総数25万語、新項目1万、その筋のプロが繰り返し点検重ねてもミスがあるんだね 裏ブログ、「うどんとラーメン」で更新予定。
カズオ・イシグロ著『遠い山なみの光』(早川書房)読む。昔の記憶に今を重ね、薄暗さの遠くにあるかすかな光を描いている。それは、「日の名残り」、「わたしを離さないで」と同じだ。今回も、読み始めてすぐになんとも言えない不安が湧いてきて落ち着かない。だがドラマらしいドラマはやはり希薄。緻密な記憶と情感と人間関係の表現がページをめくらせる。イメージの操作で読者に何かを感じさせる、というのではなく、普段考えないようにはしているが、それは自分のことではないのか、というイメージを心の奥底でキャッチさせるのだ。こんな表現は、村上春樹に少し似ているが読後感が違う。
正月に息子と電話で話しをしていて、本の話になり、これを勧められた。「わたし」が出逢った母親と娘と、義父のことが印象に残った。時代の変化で価値観が混乱する中、藻掻く(もがく)人間を巧みに形象化しているからだろう。一冊をママヨさんと交代交代で読んだ。それで、読み出すたびに、「誰が何をしたのだったかな?」とかなり前まで読み直すことになった。そのせいか、苦手な外国文学(英文学)にも関わらず、長崎が舞台で登場人物が漢字の氏名ということもあり。なんとか読み終えた。
「こんな難しい小説は久しぶり」とママヨさん。「自分が読んだ本の感想を人から聞くのは久しぶり」と波風立男氏。 除雪後、焼き芋食べながら、日本文学とは違う本の感想を話した。
紅白の梅、最初は花弁をなぞったのを描いて全然面白くないから描き直した。後でママヨさんも描き始めやっぱり面白くないのか、放ってある。「毎日が日曜日」につき図書館に行って『梅』の絵を調べる。なるほどなあ、同じ苦労をしているはずなのにそれを見せず易々と…プロだね スケッチブックでジエッソー(キャンバス地塗材)使うと塗れるが削れない。百均でキャンバスボード買ってくる。ついでに作ってみたい人形あり紙粘土2袋も。