週1回25分間のTV『100分de名著』、今月はハイデガー『存在と時間』。視聴を助けてくれるテキストがあっても難しく、講師の解説とイラストで何とかついていく感じ。最初の、「○○が存在する」の○○は「存在者」で、「がある」の方が存在という箇所、「何コレ?こんなんで読み通せるの?」となりつつ、考えるの止めて(笑)先に進む。万事こんな感じ、定価600円のテキスト代もったいないので何とか読み切った(涙)。解説書でこれだもの原著は気が遠くなる難しさだろうね。テキスト掲載のほんのわずかの原文でも全て理解困難(笑)。ただ、『存在』を『時間』との関係で考えたのは勉強になった。
わかったことを書いてみる。
人間は世間の尺度で生きているのか、自分らしさで生きているかのところで立ち止まる。前者は、不安に陥らないが責任を負わない生き方で、その不安は自分が存在していること自体にあり、対象がはっきりしている恐怖(雷が恐いとか)とは違い逃れられない、なんてところを何度も読み直す。
世間の尺度に飲み込まれる退廃した人間は、世間話と好奇心と曖昧さを好むと言う。これ、俺だなと笑う。自分らしく生きるには「それで良いのか」という良心(そう呼びかけるだけで、こうしなさいとは示さない)に耳を傾けて自分らしく勇気を持って決断して生きることが必要だというのがこの哲学の肝なのかなあ。孤独に耐えて自分のあるべき姿を実現すべきというのは独創的なのかもしれないが偏屈な人間性だ。少なくとも楽しい人間では無い、友だちにはなりたくはないなあ。
番組最終回、ハイデガーがナチス党員でヒトラー礼賛していたことの特集。「やっぱり」と思ったのは、権力者が暴走した時の恐怖で、テキスト読みながらプーチンが時々頭をかすめたからだ。ハイデガーの弟子たちが、師匠の偉大さを認めつつ、「仲間」から切断されている間違いとか、「決断」を目的化し、して良いことと悪いことの倫理が欠けていると指摘。それが、ヒトラー支持の決断に向かわせた結果と。ふ~むと思う。
プーチンの決断が、ウクライナ侵略戦争をネオナチに対する祖国防衛の軍事作戦と言い、やっていることがナチスと同じなのに考え込んでしまう。戦後のハイデガーが、ヒトラーに利用されたと嘘をつき無反省を貫いたのと同じように、プーチンの末路もそんなことになるのだろうか。
ハイデガーの『複数性』(人は1人1人違う)につながる話題を裏ブログ『哲学のママヨさん』に書いた。違うから、人は話をし協力し自他の幸せを追求するのか、世間の尺度で無く自分の価値観を信じ孤立恐れず勇気を持って決断し実行するのか・・・・さてどちらを選ぶ?なんてことを思う 難しい本に手を出すと難しい本が恐くなくなる(笑)昨年末から中途の斉藤幸平著『人新世の「資本論」』をそろそろ再開しなくては。