裏ブログを『開ける力』で書いたら、『生きる力』はどうなんだと言われたような感じがしてきた。昼飯(喫茶店風の太麺ナポリタン調理)が終わって、昼寝して、波風食堂の掃除したからブログ書いておこう。
元教員の波風氏は、コロナ禍での教育が気になる。子どもと先生と教えること(教えられること)があっての学校。のび続ける新学期、いつ再開されるか誰も本当のところはわからない。しかし、根本的な問題は見えて来た。
ひとつは、こういう状況でこそ迫ることのできる『生きる力』の教育がほとんど見えてこないこと。今世界で起きていることは何?これをどう考えたらいいの?君は何が出来るの?・・・・・これを指導の根幹に据えず、年間指導計画が、指導時間数が、夏休みを授業日に・・・・・・なんてことばかり聞こえてくる。学力という『生きる力』の部分と、困難を乗り越えていく『生きる力』そのものの検討と実践が試されている。
もう一つは、教育条件の目に余る脆弱さ。こういう時こその丁寧で工夫された指導が教員の過大な児童・生徒受け持ち数で出来ず、必要な機材や研修機会に恵まれず、端末整備もほとんどされずにオンライン授業を指示されたり、きっと行政が求める調査報告も平常時よりも半端なく多いことだろう。貧困や虐待に震えている子どもに「ふれあい」が許されない状況は、教員の苦労と悲しみを察して余りない。安上がり教育のツケが回ってきている。
老後生活でわかるのは、家事の大変さ。生きることは、腹の減ることで、汚すことで、壊すことで、機嫌良く暮らすこと。さっき、洗濯器の使い方を初めて聞いた。洗濯液を作ること、下洗いすること・・・・・とても一回では理解できない。今までのいい加減な洗濯に呆れる。「君は何が出来るの?」をさすがに自問自答する。未だ教えてくれる先生がいて、未だすぐに忘れてしまわない生徒のうちに。
空疎で悲しい主人公と作家の晩年、渡辺淳一著『孤舟』。プレディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』読み始め、英国の教育と子育てに興味津々。どちらもママヨさんが友だちから借りて。