久しぶりに、ギャラリー更新しました。久しぶりに描いたということ。気分一新は、言葉より絵の方が効果的。4枚新作。左のイラストは、お菓子みたいな甘藷。別に好きじゃないけれど何気なく食べて旨かったので。描き残して満足いく食後、みたいな…ここからどうぞ。
「芸術新潮」(1月号)読む。表紙の
「ねじ式」に見入った。高校生の時から見ているのにいつも衝撃を受ける。見てはいけない世界、見世物小屋に迷い込んだような…。時代経ても陳腐さ感じない。
昔、「赤い花」をゼミで読んだ。学生の多くは知らない作品。マンガ「赤い花」は国語教材になり得るのか、というテーマだった。1冊を回し読みして始めた。「マンガ表現の開拓者」は田舎の国語教員希望の学生にも影響を与えた。長編小説より短編マンガが人間の真実を表現することはあり得るのか、と盛り上がった。教授は、教科書掲載の小説に対する盲信、文学教育の落とし穴、芸術表現の広さを教えたかったのだと思う。
「赤い花」のキクチサヨコ、シンデンのマサジ、釣り人が織りなす夏の数時間、あれから40年経って読み返すなんて。キクチサヨコは藤圭子がモデルだろうなあ、なんて言っていた20歳の頃。弱さへの共感みたいなものが自分の奥底に漂っていて、それがこのマンガに共振する感じがする。マンガの技法で綴られた詩。
教科書の領土問題…この時期に政治の緊張を、学校と子どもに押しつける感覚がわからない。こういう大人が前にも戦を始めたのだろう小さな街では、自分の知り合いの知り合いが巡り巡って知り合いだった、というのは普通のことなんだなと、不良定年生活送る立男は思うのであった。
【前編から続く】 ブログに載せるイラストで絵葉書を作るようになった。それを自家製の連絡用葉書にし礼状にも使う。たまの万年筆も楽しい。電話だと、昼間は仕事中でないか、夜は食事中か風呂か便所か、よんどころのない最中ではないかといつも躊躇する。電話は相当に勇気がいる。むしろ、遠い人の宛名から温かい気候なんかも想像しながら、ゆっくり言葉を選んで気持を伝える方がうんと気が楽だ。少し書き慣れると時間もかからない。
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波風立男という方は、電話でなく、葉書でお礼したい人、そういう趣味の人、とわかってもらうにはもう少し時間がかかると思う。この頃は、何かの集まりの出欠連絡も葉書だ。新作の絵葉書を送る機会についでに書く。こういうのが最近の生活リズムというか、生活スタイルになってきた感じだ。どんな礼状を出しているのか実際に体験したい方は、試しに何かを送ってみてはどうだろう(笑)沖縄と離島を除いて、1週間以内に礼状が届く。こういう冗談を時々書いていたら、そのことを葉書で言いつけた方がいて、ママヨさんが最近このブログをチエックし始めた。凶の夕食は、いや今日の夕食はあたらないかもしれない(恐)
前回と今回の記事は、3週間前の初詣後に下書きして忘れていたもの。だから、おみくじで出た「凶」が文末にイラストは20年前からの家具。椅子2つ並べてのうたた寝も20年。漢字で「転た寝」と書く…なるほどなあ。
贈り物いただき電話でお礼しなくなって2年になる。「礼状もしたためず、目上の方を電話口に呼び出してお礼を言う失礼」の一文(竹西寛子著「お礼の電話」)読んだことが大きい。お礼の電話するだけましではないかの言い訳諫め、電話の便利は便利、礼儀は礼儀と続き、自分の横着や怠慢を顧みて、生活の貧しさを考えたいと結ぶ。立男は、贈り物が届いた時、お礼の電話する前の自分の心細さと不安の正体がわかった気がした。お礼が無礼になることもあるのだ。
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親切な方がいて好物を送ってくれる。お礼の電話すると、決まったように素っ気ない。いつも早く電話切ってくれという感じだ。心からの「どういたしまして」という気持を怒っているように表現してくれるのだ。この方からお礼が来る時は、随分饒舌で笑顔で(絶対にそのはずだ)少し長い電話になる。心が真っ直ぐなのだ。極端と言えば極端だが、心根は波風立男と同じだと思う。お礼の電話を受けるのが実に困るという気持が痛いほどわかる。特に理由は無いが、この方には今でも電話でお礼している。笑顔の立男が【次回の後編に続く】
赤い紙に置いた干し柿。中学で習った先生から手作りの羊羹いただきこの絵使った絵葉書でお礼したら「いいね」と言ってくれた。干芋送ったら「旨いね」って電話くれた。声聞いて嬉しかった。電話もいいな。