去年までは、大学生を前に講義をしてきた。そして今は、小学生に教える仕事をしている。「小学生ってどんな感じなんだろう?」と、どきどきしながら4月を迎えた。その最初の感想は、「小学生ってこんなにも、知りたい!わかりたい!と思っているんだな」ということだった。
・・・
いわゆる「偏差値の低い」大学でいざ講義をしようとすると、「先生の話す話は難しい。わからない。どうせ聞いたってむだ」、という空気が漂っている。だから、いつも最初は、話を聞いてくれない学生たちに、「先生の話は、聞いたらわかる話だ」と思わせることに時間をかけたり、工夫をしたりした。
・・・
学生たちも小学生の頃は、「知りたい・わかりたい」という気持ちにあふれていたんだと思う。その「育とうとする気持ち」が、大学生に至るまでの過程の中で、「どうせ先生の話はわからない」になっていってしまったんだと思うと、いたたまれない気持ちになる。育とうとする気持ちを枯らすような、学校の仕組みになっているんだろうか。
迷惑かけた人に「ゴメンナサイ」「スイマセンデシタ」や「モウシ マセン」でことを済ませるのは謝罪とは違う。自分の気持ちを相手に押しつけているだけだから、ヤジの延長線でしかない。謝罪とは、自分がどんなにひどいことをしたか反省し、「ドウカ ユルシテクレマセンカ」を相手が承認してくれるまでお願いし続ける極めて人間的・精神的な行為だ。同時に被害者も何を基準にどんな態度で謝罪を受け入れるかの覚悟、人間性が問われる。形だけ突出した演劇的謝罪が土下座で、やる方もやらせる方も品性が下劣だ。
話題の都議会ヤジは完全に人権侵害なのだが、犯人判明後の方が何だか気分が悪い。加害者も被害者も謝罪の土俵にいないからだ。謝罪風言葉と慇懃な態度、それを簡単に受け入れるケジメのなさが嫌だ。両者とも早く一件落着したい、長引くと不利になると思っているようだ。石原環境大臣の「金目」謝罪も同じ感じだ。マスコミは権力者の失言内容を取り上げるが、謝罪のあり方は驚くほど触れない。麻生氏のいじめ被害者3条件発言も、生死に揺れるいじめ被害者への謝罪に言及しない。何はともあれ謝罪の格好つけたら幕が引かれる風土は困ったもので、教育上まことによろしくない。
ところで、都議会「セクハラヤジ」を、「セクハラオヤジ」と立男は何度も読み間違えたが、やっと出てきた犯人見て間違っていないと確信した。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………
イラストは風船蔓(フウセンカズラ)の幼い苗。そよ風に揺らいでる。礼文の子にもらった種で育て続けて10年。今年もかわいい実をつけて欲しい 大学で、現職の実践家の話を学生と。生徒理解力とは何かを実感。オタク文化の教育的活用も。
「かないくん」※(谷川俊太郎著、松本大洋画:(株)東京糸井重里事務所発行) 読む。新聞書評で気になり図書館に入れてもらった。この言葉と絵、繰り返し読みたいから自分でも買う。
-
この本で突然思い出した。大きなポプラの下で隣のクラスの子が死んだこと。数日前、運動会の組み体操で手をつないだだけの知り合い。大雨になった花火大会、ポプラの大木で雨宿り、そこを直撃した雷、大人2人と彼の感電死。新聞配達していた小6の立男は、木の周りに3人が倒れている図入りの記事が載った新聞を配った。雷で焼け焦げた跡のあるポプラの木に花が添えられていた初夏のこと。50年以上前の思い出、そして今まで出会った死んでしまった人のことを思い出していた。
-
生とつながっている死、死が新しい生につながる予感。死は「重々しく考えたくない、かと言って軽々しく考えたくも無い」ことをを、吐く息と吸う息のリズムをゆっくり意識するように考えさせてくれる一冊。絵本の可能性、感じた。