死んだらすべてがお終いで何も残らない、と元都知事が言ったと知り、この人の小説を読まずにいたのは当然だと思った。だが波風氏も少し前まで同じだった。働きに出かける時に「もし何かあったら、いつも機嫌良く働いていました、と言ってくれ」、「いつ亡くなってもその時点で満足できている」なあんて格好つけていた。残される家族のことなど全然考えていない、自分中心なのだ。
縁ある方々が年々逝くようになり、わかったことがある。生前好ましかった人は亡くなっても笑顔を思い出し温かい気持ちになることだ。生死に関係無く懐かしい感覚。困ってしまう恥ずべき人のことは身体が拒否反応をして思い出し装置が働かない。いつの間にか浮遊し少しづつ暗闇に消え、最後に恥ずかしさだけがぼんやり残っている終わり方。死者は周りから忘れられた時が本当に亡くなった時と言われるが、そうかもなあ。良い人も悪い人も普通の人も。
生きている人は、死んで既にこの世にいない人とともに生きている、支えられて生きていると思えるようになった。老いるほどに姿かたちが鮮明になり繰り返し会いに来てくれる人もいる。
生きている人が懐かしく思い出してくれる死者になれれば嬉しいなあ、と人生後半戦に入った波風氏。この前ママヨさんが、好奇心5、実行力4、センス4、思いやり3、常識3、気の長さ2と波風氏出題のアンケートに回答。半世紀間の観察と2人暮らしゆえの忖度でこの結果。フームと感じつつ、最も身近な人に「楽しい人だった」と記憶されるよう暮らし終わりたいたと思った。波風氏の記憶世界に住んでいる懐かしい方々が、何かの拍子にふっと会いに来てくれるのはいつも「楽しい人」としてだからだ。「楽しい」は万能で極上の価値観かもしれないな。楽しく暮らしていれば楽しい人になれるかもしれない、楽しい記憶が縁を結んだ方々に残ってもらえるかもしれない。
この記事を書いてホットした、久しぶりにブログUPしたことと考え続けていた難題を文章に出来たから画像は鶴見俊輔著『教育再定義の試み』(岩波現代文庫)。昨日のラジオ『高橋源一郎の飛ぶ教室』で語っていたので本棚から。息子の、自殺しても良いのかの質問に、この場合ならしてよいという箇所を強烈に覚えている。図書館に買ってもらい一度読んだ黒川創著『鶴見俊輔伝』を発注した。読めなくても手元に置きたい本がある。