波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

恩師の言いつけ  №10

2012年03月03日 | 新聞掲載

 「偉い人と勘違いせずエライコトになったと思え。痛いところを突いてくれるPhoto 直言の師を望んで持ち、応援団のある仕事を」と、中学時代の恩師が教師の心得を教えてくれた。私はこの先生にあこがれてその世界に入り、今月末に定年退職する。

 教育は一生を賭けるに値する素晴らしい仕事だった。同時に、一人で出来たことは何一つない。エライコトだらけ、反省ばかりの毎日で勘違いしている暇も無かった。
 続いたのは運と偶然と、支えてくれる人がいつもいたからだ。成果を急いで形にしなければならない風潮の中、教育には夢とロマンが必要だと夢中で走り回ってきた感じだ。周囲を見渡すと子どもに向き合う先生ほど許容量を超えるストレスにさらされている。だが、少なくない子どもと親たちはもっと過酷な中で生きている。生活も、教育もそれは厳しい時代だ。

 だがこの1年、子どもこそ生きる希望、教育は闇の中の光だと得心した。東日本大震災後、話したことも会ったことも無い日本中の子どもどうしが想像力を駆使して、思いやりと感謝の心を通わしている。大げさでなく、こんなことがこの国の歴史にあっただろうか。未来は満更でもなさそうだ。
 さて私は今春から立場を反転し、奥ゆかしい直言と応援のできる人間修業に入る。恩師の教えは永久に不滅だ、ここら辺が教育の奥深さだと思いたいこの頃だ。(3/3 北海道新聞)掲載


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勝手に書いた恩師の言葉。その恩師から久しぶりの電話。「これは先生のことですね」と何人もの元同僚、後輩の先生方から電話が来たそうだ。「偉い人…」の言いつけを忘れない方々たちが私以外にも大勢いるのだ。

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辰年の年賀状  №9

2012年01月29日 | 新聞掲載

 家の年賀状を初めて書いたのは小学校6年生の時だ。「子どもの俺でいいのかな」と思ったがPhoto 、年末の母は内職で忙しく、妹は幼すぎて、やっぱりやるしかないと決意した。絵が少し得意だったこともあった。もの心つく前に亡くなった父に代わり、一家を支える長男の自覚を中学校入学前に促される機会だったような感じがする。

     この年賀状のことを忘れられないのは、描いた龍がとんでもなく下手だったからだ。色鉛筆で描いて気に入らず上から墨でなぞり余計にひどくした。それではと気分を変えて描いた竜の落とし子は、何が描かれているのかさえわからない。ちゃぶ台で格闘している私に、母が後ろから「何だか、おもしろいね」と言ってくれた。
 正月の新聞には、干支のイラストが満載だ。プロだから上手いにきまっている。これと家に来た印刷の年賀状が、「絵だけはうまい」はずの私のプライドを年始めからへこませ続けた。ただ、どの親戚も、例年より少し多めのお年玉とともに、「晃ちゃん、立派な年賀状だね」と口裏を合わせたように励ましてくれた。

    この年から、家の年賀状を描き続けている。あれから4度目の辰年の今年、3月末で定年退職と書き添えた。それにしても、あの最初の年賀状に書いた「謹賀新年」に私はどんな気持ちを込めたのだろう。【平成24年1月23日 北海道新聞朝刊掲載】


…………………………………………………………………………………………………………………………………………………2年目に入る40日毎掲載の新聞コラム、今年最初の550字。次の3月4日掲載が現職最後分。さて、何を書くか…。

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人生の扉  №8

2011年10月31日 | 新聞掲載

 昔の教え子で、今は生徒のお母さんから「タイムカプセルはいつ開けるのですPhoto か?」と聞かれた。ついに来たかと思った。
 25年前の格技場完成記念の時に作られた頑丈な木箱のことだ。大きさがちょっとした冷蔵庫ぐらいある。私の学級では、結婚運や子どもの数の予想、その場で脱いだ学校指定ジャージーなんかも入れた。格技場正面の天井近く、すぐ目に入る所に設置した。だが、その時立ち会った者以外、この箱の意味を知らない。扉が校訓の揮毫を飾る額で、カプセルに見えないからだ。私が箱の秘密を忘れなかったのは、この学校を一度離れたが、再び勤務し、時々仰ぎ見ていたからだ。正直、面倒だと思った。当時の生徒数678人、教職員35人への連絡だけでも大仕事だ。だいぶ前に開けるはずだったのにと恨み節も出た。ご健在な当時の校長先生に話したら「この日をずうっと待っていた」と目を輝かせた。観念した。
 今月22日の「開ける会」は全参加者190名、17学級合同クラス会として実現した。生徒たちは大人になっていた。前代未聞の楽しさだった。
 招待される側に格上げされた私には気抜けするほど仕事がなかった。うれしいような寂しいような誇らしいような変な気持ちだ。ただ、「正義、博愛、健康」の校訓を、人生と重ねてこんなに考えたことはなかった。【平成23年10月31日 北海道新聞掲載】


…………………………………………………………………………………………………………………………………………………今回、最後まで悩んだのは題名だ。いつもは、冒頭と文末で迷うのだが。「タイムカプセル」、「開く」、「中学生時代」などの言葉をいくら組み合わせてもピタリ感が無い。文中の「扉」と文末の「人生」で何とか落ち着かせた。表現にはいつも覚悟が伴う。周りには小さなことに映っていたとしても。

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勉強  №7

2011年09月20日 | 新聞掲載

 悪いのは私だった。家から出てすぐの丁字路で一時停止しなかったから、走ってきた車にオーPhoto
トバイで激突した。何とか立ち上がり、大きくへこんだドアを横目に見ながら、「うちはお金がないんです。どうか許して下さい」と何度も頭を下げていた。30歳前のころだ。
 必死さに車を運転されていた方も驚いたのだろう。「わかりました、私の方で何とかします。」と言ってくれた。情けないが痛さを忘れた。本当にお金が無かったからだ。大きな物音を聞きつけた妻が、この一部始終を後ろから見ていたらしい。
 その日の遅い夕食の時だった。小さな子どもたちはもう寝ていた。「きちんと弁償した方がいいんじゃないですか。うちの仕事は学校の先生です。お金は何とかなります」と、静かに妻が言った。
 次の日の早朝、車の人を訪ねた。無責任で非常識な態度を謝り、心配してもらったことに感謝した。落ち着いた目で見ると私より若いくらいの人だった。「本当に大丈夫なのですか?」と言ってくれた。「ちゃんとした先生に、いや人間になれるかどうかの勉強を今しているところなんです」という言葉が自然に口をついた。
 いったい私は、本当の勉強というものをどのくらいしてこれたのだろう。来春、定年退職を迎える予定なのだが。

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40日周期の「朝の食卓」も7回目。最後の「…これたのだろう。」は今話題の「ら抜き言葉」だ。「…こられたのだろう。」はどうも違和感があって…と意識的にそうしたと言いたいが新聞を見て気づいたことだ。この「ら抜き」表現、大学の国語学講義で北海道方言と習った。今回、「T字路」でなく「丁字路」だと編集の方に教えていただいた。

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ソーランの聞こえる夏  №6

2011年08月09日 | 新聞掲載

89_2 19年前、私の勤務する学校で、文化祭用の踊りがつくられた。それは、「南中ソーラン」と呼ばれるようになり、思春期真っ盛りの中学生の心を今も捉え続けている。練習を積み、切れのよい一生懸命な舞は観客の心を引き付けてやまない。踊りの輸は南中を超えて広がり続けている。市民ぐるみの子育て運動の街・稚内の共有財産となり、稚内発の新しい郷土芸能として根づいて欲しい。
 夏休みの今日も体育館からソーランの歌が聞こえる。中学生が高校生から踊りを習っているのだ。市内4申学校の21人が来月、地震で被災した宮城の中学校で踊る。「ソーランで元気を贈りたい」という中学生の声を稚内市が受け止めてくれたからだ、市内3校19人の高校生は、今月の全国高校PTA研究大会(札幌)で踊る。来年から市内全小中学校の共通教材になるので各校の先生たちも真剣に見ている。
 稚内の中学生が、東北の中学生の困難を想像し、自分たちが学ぶ郷土芸能で交流したいという心がうれしい。この踊りの原点、最北端の海で働き苦難の中でふるさと稚内をつくり上げた先達に学ぶ精神に重なる。
 国難といえる大震災は、子どもこそが確かな希望なのだと私たちに教えてくれた。教育とは子どもを人間にするための大人からの激励だが、子どもが大人を勇気づけるのも教育の可能性だと信じたい。【平成23年8月9日 北海道新聞「朝の食卓」】

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今回のコラム、学校や稚内の宣伝にならないように注意した。踊りの起源を「学校再生」にしたがる誤りがずうっと気になっていた。昭和の荒れと、平成の踊りが一緒くたになるのは映画の世界だけだ。今回は本欄に、「教育」をストレートに書いてみた。

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