波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

大晦日も『ブログ脳』

2024年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の波風氏は、「自分の感じ方で暮らすのが一番大事かな」と今までになく思った。自分を信用できるというのでなく、当然と思っていた考え方や日々のマスコミ情報を当てにするのが怖くなってきたからだ。ポイントは「考える」でなく「感じる」で、じっくり考えることは引き続き大事だがそのための知識や情報を感覚頼りでも広めに得たい。直感的な好き嫌いを何かの選択や決めごとでも使うことが多くなりそう。このブログはその実践例というか、研究材料。

14年ブログをやってきて、分かったことが2つある。1つは、何かを感じているけれど言葉に出来ない時に、なぜ自分はそれを感じ続けるのだろう?心配や疑問や心に引っかかる些細だけれど忘れ去らないことを「感じ方の言葉」を頼りにして、「ああ、そういうことか」と納得していく波風氏なりの感覚システムの発見。「思考システム」とは言えない、自分中心の直感的言葉選びだが、ブログ記事にできると気分上々だ。
もう1つは、外界からの気になる言葉、なぜ自分はこの言葉に反応するのだろうから始まる脳内システム。感覚的な時もあるが、どちらかというと思考的・思索的システムによるブログ化。これを『ブログ脳』の仕業という(辞書にも無いから波風氏の造語と自分で認定)。

3段落仕様が波風ブログの特色。シンプルな「はじめ・なか・おわり」は、500字程度の文章を書くのにも読んで貰うにもギリギリ許される長さ。そこなんだよね、普段の暮らしで、何かを感じたり考えたりする時だって(作業も同じ、準備⇒作業⇒片付け)、その程度の脳内活動や家事作業できれば間に合うし、それを人は「自立した人間」と言う、のではないかなあ。


こんな話を書くつもりでは全然なかったが、『ブログ脳』という言葉が浮かんで書いてしまった 未だ3冊読み終わってない本があるのに、韓国のハン・ガン著『すべての、白いものたちの』も通販で届く。4冊を気分によって取り替えつつ読む年末(年始めもだな)書きたかったことは明日のブログに。

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女と男の『わ』

2024年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

前回ブロク記事の『あるはあるは』が気になっていた。寝る前に読み直しやっぱり違和感あって調べたら「あるわあるわ」だった。
辞書に、「副助詞〈は〉からの変化①女性語 自分の主張(判断)などを相手に納得させたり自分で確認したりする気持ちを表す。「知らない-/存じません-」、感動や驚きを表す。②多く男性語 感動したり驚き呆れたりする気持ちを表す。「居る-、居る-、黒山の人だ/電車は混む-、台風にあう-で、散々な旅行だった。/世の中には変わった奴がいるもんだ-」。文法:活用語の終止形に接続する。」(新明解7版)
もとは「は」だったのが「わ」に変わったんだ。昨日買ってきた新明解8版も7版と全く同じ。前回の「なので」は8版が少し詳しく説明していた。

 

辞書を引く文化が生まれ育った波風家に無かった,そもそも辞書がなかった。ママヨさんは、言葉でも植物でも昆虫でも分からなければ辞書を引く。地図もよく開く。「なんて面倒なことを」と初めは思っていたが、父親から植物図鑑が送られてきて、「家風なんだ」と合点。
ママヨさんの影響と仕事が仕事だったので辞書を引かざるを得なくなったが、習慣とはすごいもので苦にならなくなる。3年前の広辞苑も今回の新明解も机上版にしたので、重くなったが字が大きく嬉しい。
『舟を編む』が映画もTVドラマも面白かったのは、言葉ひとつに徹底してこだわる心意気・仕事ぶりと辞書編纂の過酷だが豊穣な世界を垣間見せてくれたからで、人生を航海する船としての辞書とか、辞書は人生で道を失ったときの羅針盤という井上ひさし氏の言葉を思い出す。


中学校入学して最初の国語授業で先生から、国語辞書と漢和辞書を買って来いと言われた。前者は、金田一京助、後者は角川源樹と表紙にあったのを買った。本屋で買った最初の本、使わなくても還暦記念大始末まで本箱に残したあと3日寝るとお正月。恒例の(こう打ったら「高齢の」と出た)今年も生きることができた、来年はこう生きることにしようを考えてみたい。図書館から借りてきた松下竜一著『豆腐屋の四季』を読み、何度か涙が滲んだ。

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会話なら丸

2024年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

大学のレポートで、『なので』を使うと減点した。赤ペンで『だから』や『それで』の順接の接続詞をペケの横に添えたが、何度も繰り返し閉口した。小学校の時からがっちり身につけてしまったのだろう。つい最近、中学生の読書感想文(原稿)を読む機会があったが、あるわあるわ。

 

辞書には、「接続詞、助動詞「だ」の連体形に助詞「ので」のついたもの。だから。であるので。」【広辞苑】 味も素っ気も無いが2018年の第7版だから既に世間では広く使われているのだろう。別のには、「⇒ので、接続詞 前に述べたことと、それを原因・理由として導かれる帰結とを結びつけることを表す。口語的表現 外で食事は済ませてきた。-今は何も欲しくない」【新明解】 広辞苑よりは庶民に少し寄り添ってくれる。こっちの辞書推しの理由は「口語的表現」をバッチリ明記してあるから。口頭発表でなら文句言ったことは無い(言いたいが)。

 

大学で教えているママヨさんの弟とママヨさんが、ラインで『なので』のやりとりしていた。彼も口語と違い工学系の学生レポートにあったら直させるらしい。文系の姉と理系の弟が互いに辞書引いて対話している、面白いなあ。
別の話だが、『絶対は否定の副詞』という合唱曲があるぐらい、衆目周知の文法が、夏目漱石と森鴎外が否定で無く強調の意味で使っていることが分かり、「あの常識は何だったんだ?」ということになった。『なので』も、近代日本語誕生に貢献したどこかの大家が使っていた、なので『なので』から口語的表現の限定が解除されたりして。そうなっても、違和感は残るなあ、絶対に(あっ、否定で無く強調で使ってる!)


初めて買った新明解は2013年の第7版。もう10年以上経つから、第8版を買ってこよう。この辞書は、時々「あっ」とする奇抜な意味が載っていて楽しい  毎月の定額給料(=小遣い)がわけあって新年度から定額年俸制に変わる。前よりも計画的に自立的に財布を持たなければならないのだが、世間の年俸制の話はこの頃聞かないなあ。

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4つの愛(後編)

2024年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

(前回からの続き)
是枝監督の昨年映画『怪物』。見る側を終始不安にさせる映像と言葉。落ち着いて話せば、最初から不信を持たないで対応すればこんな絶望は生まれないはずなのに。切羽詰まった時の言葉のすれ違いと誤解を作ってしまう態度が思ってもみない方に転がっていく。『いじめ』を巡る親と担任と校長に対するバイアス持って映画を見てしまう迂闊さ、そこに巧に引きこむ緻密な脚本と演技。少年の持っているライターと、何度も出てくる放火らしい大火事を結びつけている波風氏。子どもに純真さ無垢さ、残酷さのイメージを拡大して見ている波風氏。『怪物』の出どころというか、その本体を覗いてしまったような怖さ感じた。愛の薄っぺらさ無理解、というか。幼い時期の同性に対する自分でも分かるわけがない感情、それは「愛」の萌芽とも言えるものだがそれに気づかないとこの映画に入れない。
YouTubeで、いくつも「何をどう描いているのか」を解説しているのは、宮崎駿監督アニメ「君たちはどう生きるのか」と同じように難解だからだが、そんなのに頼らず「何を意味する愛なのだろう?」と自分が納得できるまで考えるのが楽しい。長く感じられる作品に備わっている秘密は愛。


脱北した天才数学者と高校生の師弟愛、家族もキャリアも命よりも大きな真理に対する愛。2022年の韓国映画『不思議の国の数学者』
 
実話では無いが、隣の国の学歴主義や学校事情をかいまみて、これは日本と同じだと思う。いや、こういう映画を作りそれをヒットさせるレベルに驚く。戒厳令に反対し銃を恐れずに抗議していた若い女性の姿に衝撃受けていた。映画『グット・ウィル・ハンティング 旅立ち』(1998年公開、マット・ディモン、ロビン・ウィリアムズ)は、数学の天才が若者で、寄り添う孤独な精神分析医が老人。科学発達の背後にある原動力が数学という言葉があったが、感情に左右されない真理『数学』が、美や芸術の芯にもなっていることに驚きつつ、すべてをかけてその世界に分け入る覚悟というか情熱は、凡人には伺いしれないが『愛』の対象だからだろう。


4つのドラマの簡単な感想をブログに書いた。記憶の保管庫に収めた安堵感。どこに収めたか忘れてしまうが気にしない、言葉で支えている暮らしに句読点をうつような、気分刷新し新しい興味に向かうために必要な整理整頓みたいな気がブログにある  長く冷凍していたタコがあったのを思い出し、たこ焼き昼食。タコぶつ切り、キャベツ(これが美味い)、青ネギ、紅生姜、天かす、青海苔、かつお節、そして長芋と出汁入りのタレ。丸くなると嬉しい外側カリカリ内側トロトロボール。マヨネーズとオタフクソースで。

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4つの愛(前編)

2024年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

楽しみなTVドラマ2つ終わる。定時制高校を舞台にした『宙わたる教室』、紫式部を主人公にした大河ドラマ『光る君へ』。学ぶ楽しさをこんなふうに清々しく扱うドラマがあったとは。それぞれが傷を持った生徒の「火星を教室に作る」科学部活動のワクワク感。この学園ドラマが描く愛は自己愛。

後者は、久々の大河。竹中直人版の豊臣秀吉以来。現代語訳『源氏物語』未だ読み終われず、分かりたいけど分からないままの読書生活。再読のきっかけ期待。紫式部(まひろ)と藤原道長(三郎)の運命的な関係は創作だが、見応えあり、吉高由里子と矢部太郎が上手い。戦なしの宮廷物語だが、天皇と妃と官僚の関係、支配層の仕事、武士台頭の兆し、なかなか見せる。描く愛は、当人同士が切っても切れない灯火を密やかに燃やし続ける男女愛。

残り2つの愛は映画による、師弟愛と同性愛。4つのドラマを見終わって何か共通なものを感じ、何だろうと考え行きあたったのが『愛』。創作のドラマは人を描きそれは愛の形。リアルな人生では、親密さに濃淡あってもほとんどの人間関係が愛の営みかもしれない。反発したり無視したり憎みさへも。創作の愛を鏡にして、「こんな感じを経験した、あんな感じはあの人間とだなあ」なんて遠い日の花火らしき記憶を脳裏に映す冬の晴れた午後。(次回に続く)


一昨年、瀬戸内寂聴訳と谷崎潤一郎訳の源氏物語、古本屋に売ってしまったのだった。「また勝手に片付ける!」と愛の感じない怒気で叱られる 熱い白ご飯を丼に盛り、稲荷寿司用に甘く煮た揚げと温泉玉子に葱刻んだのと白ごまかけ、ワサビを添えて「きつね丼」。こういうのが美味い除雪後の昼食六花亭『マルセイバターサンド』のことを公式裏ブログ『リスのいる家』に書いたが、珈琲のお供で1個で満足の量と味、包装シンプルで上げ底でないから好き、というママヨさんに同感。値段を抑えているのもグー。

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