先生という仕事は校種も幼小中高と別れ、多岐にわたる「期待」や「要求」があり
これこそ「先生が必要とする専門的知識」、いわゆる「専門職」としての知識を確定することは難しいように思ってきました。
一時期はフィンランドの教育が、とか英国の教育がとかいう
海外の教育制度を模範としようとする動きがあったようなのですが、
それぞれの国における「専門職として必要な資格や資質」についての論議は
ほとんどのマスコミがスルーし、世間の人たちも、
「フィンランドの教育は進んでいるけど日本は・・」といった表層的な比較論でしか認識していなかったように思います。
日本においては、小学校と高校の教員とでは大学院の卒業者が占める割合が違うのですが、
それが、公になることはあまりないですし、
教育先進国と呼ばれる国との比較において、「受け持つ児童の数」についての対比はよく見受けられるのですが、
「専門職として必要な資格や資質」についてはなぜか語られてきませんでした。
近年ようやく、佐藤学さんの「教育方法学」から、授業の有り様や学校の課題が論議され始めているように思います。
その中で教師像の類型とその文化を「労働者としての教師」「公僕としての教師」「反省的実践家としての教師」「技術的熟達者としての教師」のカテゴリに分け
「官僚化と民主化」「脱専門職化と専門職化」という2方向を基軸として示されています。
この分類に、団塊の世代という人々共に現場で過ごしてきた僕にとっては
とても納得できるものでした。
あと一つ垂直の軸として「人間性」を組み込めば「新人類」と呼ばれた世代にも
理解しやすいものになっていったのではと思いよく講座で取り上げていました
この分類に団塊の世代がぼぼいなくなったころ、今からもう10年も前ですね
次の教育現場の先生たちをあてはめるとどのようになるのか。という興味がわきました。
「なぜ、公立の先生たちはおもしろいことをやらないのか」という疑問に、答えられるものがそこにあるように思ったからです。
でも、この10年社会が目まぐるしく変化し この頃の先生はこれからの時代を読むことがとても難しいように思います。
でも先生になりたいと思うあなたたちがいることが希望なのです。
これこそ「先生が必要とする専門的知識」、いわゆる「専門職」としての知識を確定することは難しいように思ってきました。
一時期はフィンランドの教育が、とか英国の教育がとかいう
海外の教育制度を模範としようとする動きがあったようなのですが、
それぞれの国における「専門職として必要な資格や資質」についての論議は
ほとんどのマスコミがスルーし、世間の人たちも、
「フィンランドの教育は進んでいるけど日本は・・」といった表層的な比較論でしか認識していなかったように思います。
日本においては、小学校と高校の教員とでは大学院の卒業者が占める割合が違うのですが、
それが、公になることはあまりないですし、
教育先進国と呼ばれる国との比較において、「受け持つ児童の数」についての対比はよく見受けられるのですが、
「専門職として必要な資格や資質」についてはなぜか語られてきませんでした。
近年ようやく、佐藤学さんの「教育方法学」から、授業の有り様や学校の課題が論議され始めているように思います。
その中で教師像の類型とその文化を「労働者としての教師」「公僕としての教師」「反省的実践家としての教師」「技術的熟達者としての教師」のカテゴリに分け
「官僚化と民主化」「脱専門職化と専門職化」という2方向を基軸として示されています。
この分類に、団塊の世代という人々共に現場で過ごしてきた僕にとっては
とても納得できるものでした。
あと一つ垂直の軸として「人間性」を組み込めば「新人類」と呼ばれた世代にも
理解しやすいものになっていったのではと思いよく講座で取り上げていました
この分類に団塊の世代がぼぼいなくなったころ、今からもう10年も前ですね
次の教育現場の先生たちをあてはめるとどのようになるのか。という興味がわきました。
「なぜ、公立の先生たちはおもしろいことをやらないのか」という疑問に、答えられるものがそこにあるように思ったからです。
でも、この10年社会が目まぐるしく変化し この頃の先生はこれからの時代を読むことがとても難しいように思います。
でも先生になりたいと思うあなたたちがいることが希望なのです。
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