もう、慌ててスーパーに買いだめ始めたり、コンビニの食糧買い込んだり、前のトイレットペーパー騒ぎとおなじようなパニックは始まってますよね。
渋谷では若者たちが日常を楽しんでいると海外のメディアが批判的に報道しているそうです。
京都の渡月橋あたりでもまだ若者が闊歩してます。
ふっと年寄りは考えます。
リアルの危機感がネットで生きる若者たちにはどのように伝わっているのだろう?
メディアという媒体の向こうで起こる出来事はゲームソフトの世界と同じで、テレビやゲーム機を乗り越えてリアルがおしよせてくるという感覚がないのでしょうか。
自分は感染しないという感覚は「人の生と死」にあまり関わることがない人生を過ごしてきたことが、起因するのかもしれませんね。
僕ら年寄りは戦争を知らない世代と言われ、戦争を実体験した大人たちから、「リアルな写真」を平和教育の教材として示されました。
僕に残ったのは「恐怖」いやむしろ「見たくない、遠ざけたいもの」という感情でした。
映像や画像が感情を生み出した訳です。
始めて、戦争にむきあったのは、コンバットというテレビでの戦争映画とリアルに起こったベトナム戦争でした。
ワーグナーの大音響を聞きながらベトナムで機関銃を撃ちまくる米軍の兵士の姿やライフに掲載されたナパーム弾を浴びせられ、逃げまどう子どもたちの写真を見て「何ができるか」を少しだけ考えた。
けれど、湾岸戦争の時は炬燵のなかでミカンを食べながらテレビのミサイルがバンバン撃ち込まれる映像を見ても、「遠い中東の紛争で日本にミサイルなんか飛んでこない」という感覚が生まれました。
僕たちにとってもメディアの向こう側はバーチャルだったのです。
知らない間にマスメディアが変化することなど考えられない「日常」を吐きちらして彼等が指し示す正義を訴えることに慣れていったんだと思います。
若者たちにとっても人の死はバーチャルのゲーム機のなかでしか見えていなかった出来事だったかもしれないし、今もスマホの向こう側の出来事なんじゃないかな。
武漢もイタリアも若者にとってはバーチャルなんじゃあないのかな。だからリアルでパニくる年寄りたちを冷ややかにみることができるのかもしれませんね。
いくら感染者の数字が増えようと、得点掲示としてしかとらえらないのなら、「たいしたことはない」出来事でしかないだろうし、むしろ「リアルでかわることのないはずの今」が続くことに疑問をいだかない若者に「日常」が、すぐに「非日常」に変わることを教えることは難しい課題だと思います。
メディア、特にマスメディアはすでに若者の規範ではなくなりつつあるということへの危機感がないのですかね。
国が真正面から訴えても何も伝わらない若者たちをを作ったのはマスメディアと教育なのかも知れません。
自ら情報を受発信できるツールを持ち自らの「ルール」のなかで生きる日本の若者たちが、「生や死」に向き合うことなく育てきた。それだけのことだと思います。
彼らがメディアが讚美し教師たちに求められてきた「合理的」という呪縛が「感染を恐れず日常を大切にする若者たち」を生んだとしたら、さてさて、メディアや先生たち、学校で何にを教えるのでしょう?
このコロナが終息すれば、学校現場で先生を守るために何が必要なのかという論議が行われなねればなりません。