人は失敗することから何かを学ぶ感性は持っているのだと思います。
ただその感性を育む仲間や教師と出会えるかどうかが、その人格の形成に大きな影響を与えるのかも知れないなと思ってきました。
学校だけが「失敗してもいい」場所だと考えてきました。
無着成恭さんも、相田みつおさんも実現したいと考えた空間は教室にあると考えてます。
個人の学びにおける最初のステップは「失敗」から始まると思います。
この「失敗した時の自分」がどのように失敗から学ぶかが、それからの人格の形成に影響を与えるのではと考えてきました。
教師の多くは、個人における学びや努力は、個人のモチベーションや意欲に帰結するものと考えて、励ましや指摘という個への刺激を重視し、他者との比較を、判断の基準にして、「ふたたび失敗をしないこと」を教えてきました。
しかしこうした手法は子どもたちが、自ら「価値の判断」を身に付けるためには、不適切な指導だったのではと考えました。
つまりこうした手法では「1を100」にする事はできても、「0を1」にする事はできないと思ってます。
「0を1」にする事、「不可能だと思っていることを可能にする事」は「自らが新しい価値に気づき、新しい学びを失敗の中から見つける力」を子どもたちが身に付けることで達成できると考えたわけです。
学校の単一的な教科では、こうしたことは難しいので、芸術や情報、道徳、総合的な学習ので時間でのアプローチをやったら「小さな奇跡」がたくさん見えて、教師が楽しめたって感じですね。
あなたがいう高尚な理論なんてありません(笑)