電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

『大学で学ぶ東北の歴史』を読む〜その6〜東北の近世と飢饉

2022年12月18日 06時00分02秒 | -ノンフィクション
昨年暮れに読み始めた東北学院大学編『大学で学ぶ東北の歴史』もいよいよ終盤、近世に入りました。のんびりと読み始めたのに、暮れも押し詰まる頃になかなか興味深い内容で、読み終えるのが惜しい気分です。

高橋克彦『天を衝く』で面白く読んだ九戸政実による豊臣秀吉への反抗の後は、徳川政権下で大名の配置が確定され、それぞれの藩政が展開されていきます。その中で人・モノ・文化の交流が行われますが、その基盤となったのが、街道と水運でした。奥州街道はおおむね現在の東北新幹線や東北自動車道などのルートに相当しますし、羽州街道も一部の峠越えルートは異なりますが、ほぼ東北中央自動車道のルートに相当します。また、物資の輸送に大きな役割を果たしたのは、当地・山形県との関連で言えば最上川舟運や酒田港を起点とする西回り海運などの舟運と海運の整備・発達だったようです。紅花、米、大豆などを中心とする交易とともに商業ネットワークが拡大していき、人的交流に伴って文化的なつながりも拡充されていきます。現在も残る京文化の影響、雛人形や医学修行の記録などは、こうした背景があったためでしょう。



ここからは、私の考えと感想です。半世紀以上前の私の中学生時代、学校の歴史の授業では、河村瑞賢の西回り海運の開始により、出羽のコメの大量輸送が実現したという賛辞が中心だったように思いますが、今は必ずしもそうは思わない。現代ならば地元農協等が中心となって築いていた輸送システムをふっとばすような官製輸送システムが構築されることに相当し、おそらくそのしわ寄せは地元の生産者(農民)が負担させられたのではないかとニラんでいます。



さらに興味深いのは「災害と備え」の章です。東北と言えば寛永・元禄・享保・宝暦・天明・天保と何度も飢饉に見舞われていますが、飢饉の原因は必ずしも自然災害だけではない。むしろ、米中心の経済と藩政の都合で他領に多くの米を送り出し、自藩内では米が不足がちであったという状況に自然災害が大きな打撃を与えたという面が強いのでしょう。上杉鷹山の米沢藩が飢饉において餓死者を出さなかったというのは、救荒作物備蓄や御救米制度などの貢献もありましょうが、実際は質素倹約=領内から他藩へ米を出さない政策をとっていたという理由が大きいのではないかと思います。



1998年にノーベル経済学賞を受けたアマルティア・セン教授の言葉を借りれば、世界各地の「大飢饉」の原因は食料供給量の不足ではなく、人々が食料を入手する能力と資格の剥奪にある、ということなのでしょう。すなわち、飢饉は必ずしも「天災」ではなく「人災」なのだ、ということ。

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鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』を読む

2022年11月06日 06時00分10秒 | -ノンフィクション
講談社学術文庫で、鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』を読みました。文庫の初刷は2000年春ですが、単行本は1983年に出たもののようで、著者は私よりも5歳ほど年上の方のようです。たいへん興味深い内容で、じっくりと読みました。写真のような日本列島の人口の推移を拡大コピーして表計算に入力しなおすほどに、引き込まれる本でした。

本書の内容は次のとおり。

第1章 縄文サイクル
 1 縄文時代の人口変化
 2 縄文時代の古人口学
第2章 稲作農耕国家の成立と人口
 1 初期の人口調査と人口推計
 2 稲作社会化と人口規制要因
 3 農耕化による人口学的変容
第3章 経済社会化と第三の波
 1 人口調査と人口推計
 2 経済社会化と人口成長
 3 人工史における十八世紀
 4 人口停滞の経済学
第4章 江戸時代人の結婚と出産
 1 追跡調査
 2 結婚
 3 出産と出生
 5 人口再生産の可能性
第5章 江戸時代の死亡と寿命
 1 死亡率
 2 死亡の態様
 3 平均余命
第6章 人口調節機構
 1 人口調節装置としての都市
 2 出産制限の理由と方法
第7章 工業化と第四の波
 1 現代の人口循環
 2 家族とライフサイクル
終章 日本人口の二十一世紀
 1 人口の文明学
 2 少子社会への期待
学術文庫版あとがき

全体としてたいへん興味深い内容ですが、とくに興味を惹かれた事柄を列挙してみると、こんなふうになります。

  1. 人口推計の根拠となるデータに関して、考古学的な発掘調査からの推計や、近世の宗門改帳や寺院の過去帳などを分析した統計に基づいており、一定の信頼性があること。
  2. 一万年以上続いた縄文時代において、気候の変化とそれに基づく植生の変化によると思われる人口の大きな変化があり、とくに縄文晩期〜末期の寒冷期には、南関東においても大きな人口減が起こっていること。
  3. 近代になってからの南関東の人口の爆発的増加は、都市人口の膨張、繁栄のあらわれと考えられるが、近世までの「都市=蟻地獄」の現実と対比すると驚くほどで、コメ中心の経済から金納に変わる、おそらくは地租改正などにより富の都市への集中が容易になったためであろう。

  4. 人口の増減の基礎となる出生と死亡の現実がインパクトがある。乳幼児死亡率の高さ、女性の平均余命の短さは出産に伴う危険の現れであろうし、地主などが長命で子沢山なのに比較して下人の短命・子孫の少なさが対照的。病気・怪我などで絶家となったところへ地主等の次三男が分家して人口を穴埋めするという集落の実態が見える。

うーむ、これは興味深い本です。読書の秋に、最近だいぶ歴史づいていますが、貴族・武将や権力の移行などを中心とした歴史ではない、自分の頭で考える時の良い材料になる歴史の本だと感じます。

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武部健一『道路の日本史』を読む

2022年06月09日 06時00分35秒 | -ノンフィクション
中公新書で、武部健一著『道路の日本史〜古代駅路から高速道路へ』を読みました。購入後、読み終えるまでにしばらく時間がかかりましたが、内容がたいへん興味深く、権力者の交代の様子を描く歴史にはない面白さがあります。抜書をしながら読みましたので、時間がかかったのにはそのせいもあるかと思います。

さて、個人的に興味深かった点をいくつかピックアップしてみると;

  • 並木の始め(p.32) 東大寺の僧・普照の奏上による。「まさに機内七道諸国駅路の両辺にあまねく果樹を植うるべきこと」天平宝宇3(759)年6月22日公布の太政官符。「道路は百姓(人民)が絶えず行き来しているから、樹があればその傍らで休息することができ、夏は厚さを避け、餓えれば果樹の実を採って食べることができる」(p.33, 普照の奏状より)
  • 7世紀後半、律令制国家の駅制の全国展開。古代の駅路は道幅12m、両側に溝を持つ直線路だった。これが平安時代に道幅9m、さらに6mに縮小された。
  • 駅路の使われ方。日本の古代駅路の場合は (1)有事の際の迅速な情報連絡、(2)軍隊の移動、(3)公用役人の移動、(4)都への貢納物の輸送 であり、民間人の旅行は眼中にない。この点は、古代ローマの道とは異なっている。
  • 現代の高速道路と古代駅路の驚くべき類似性(一致)、キーワードは計画性と直進性
  • 中世 崩壊する律令体制と道 乱世と軍事の道 蒙古襲来の一報は古代よりも遅い(時日が多くかかっている) 統一した道路システムを持たなかったため

などが挙げられます。



他に、近世の街道並木の別な側面として、周囲の田畑からの侵食を防止するのに有効な手段であるとか、山形県において大掛かりな道路工事を進めた明治の三島通庸のことや、日本の道路の劣悪さを批判するイザベラ・バードが三島が作った道路を高く評価したことなども興味深いものです。

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東北学院大『大学で学ぶ東北の歴史』を読む〜その5

2022年03月22日 06時01分46秒 | -ノンフィクション
理系で受験科目ではなかったために大きく欠落している近代以前の日本史の陥没を埋めようと読んでいる東北学院大『大学で学ぶ東北の歴史』ですが、基礎がないためにやはり中世はよく理解できません。

  • 鎌倉幕府はなぜ滅んだのか
  • 室町幕府はなぜ続いたのか
  • 戦国時代はいつどうして始まったのか

など、こうした問いは一応脇に置いて、本書を読み進めます。

南北朝時代、室町幕府およびその出先機関である鎌倉府との対立の中で、陸奥国の領主たちは互いに連携し横のネットワークを作って領主支配を進展させていきますが、ここでは伊達氏の伸長が目覚ましいとされています。このあたり、大崎の奥州管領斯波氏と、斯波氏が山形に移り羽州探題最上氏となった中で、後の戦国大名間の緊張関係につながるものだったのでしょう。一方で北東北では安藤氏が北海道にわたり、惣領下国家や有力一族である湊家と対立するとともに、和人とアイヌとの抗争をも引き起こしているようです。

15世紀、東国を支配していた鎌倉府の足利持氏が室町幕府に抵抗した永享の乱により、奥州探題大崎氏や羽州探題最上氏などを中心とする東北各地の領主がいったんは室町幕府側につきますが、15世紀後半になるとそれぞれが自発的に活動するようになる、すなわち勝手に争うようになる=戦国時代に突入する、ということのようです。要するに、

東日本支社の下に置かれていた各支店長たちが、本社と東日本支社の争いでいったん本社側についたけれど、どっちも自分たちを守れる=支配する力はないとふんで、各支店が勝手に縄張りを広げはじめた事態

といったところでしょうか。

おそらくは、15世紀後半の気候不順や、偉い人が守ってくれるはずの私有地、荘園制度の行き詰まり等によって、自分たちの食い扶持は自分たちで守るしかないという状況に至った、ということでしょう。東北各地の戦国大名の割拠、盛衰はその結果であって、登場する人物は大河ドラマや小説等でおなじみの顔ぶれということなのでしょう。最上義光が天童氏、白鳥氏、大江氏、庄内の大宝寺・武藤氏などを破り山形県域を統一することにより伊達・上杉を抑えて徳川の世をもたらす経緯は、先ごろ高橋義夫著『さむらい道』で読んだばかりですし、北東北では九戸政美が豊臣に反抗した事件もだいぶ前に高橋克彦著『天を衝く』で興味深く読みました。小説は史実とは異なるけれど、どういった人たちがどこの場所でどんなことをしたのか、という基本的史実はおさえられているだけに、日本史の常識のバックボーンを作っている面があるようです。

一方で、本書の「戦国時代の東北の地域社会」の節では、

東北地方は在地領主の影響力が強く、村や町は未熟で後進的であったというイメージがいまだ根強い。しかし、近畿地方のような典型的な惣村や町ではないにせよ、武力を保持して隣村や領主と戦い交渉する村の姿や、町衆を組織して遠隔地と活発に交易を繰り広げた町の姿は東北各地にもみられる。(p.94)

としており、同時に出羽三山などの大寺院・霊場が宗教的ネットワークをつくり、その影響力の拡大を指摘しつつ、北奥羽とアイヌとの交流など「北方世界との濃密な関係」にもふれています。興味深いところです。



気候不順による農作物への影響はローカルな範囲にはとどまらず、近畿でも東北でも同様で、むしろ東北により厳しく現れただろうと思われます。自治の惣村だったら収穫が保証されるわけではないでしょうし、大きな収穫減にどのように対処するかは村落の形態の違いを超え、武力交渉などかなり共通の姿で現れたのではなかろうか。それが、戦国時代という乱世を生み出した背景なのではなかろうか。

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東北学院大『大学で学ぶ東北の歴史』を読む〜その4

2022年03月09日 06時01分31秒 | -ノンフィクション
高校時代の日本史は、理系で入試科目にないという理由もあって、黒船来航以後の明治〜昭和の近現代史が中心でしたので、近代以前の歴史は苦手にしております。戦国時代などは、大河ドラマ等の影響か、各地の大名等の動向もある程度は承知していますし、縄文時代や弥生時代についても、身近に遺跡の発掘調査を見た経験もあって興味をもっています。ところが中世となるとまるでダメ、楠正成は何時代かと言われても、はて? という具合(^o^)/ これではならじと、たまたま書店で見かけた東北学院大学の『大学で学ぶ東北の歴史』を購入し、少しずつノートに抜書しながら読んでいます。

中世の東北地方は、奥州平泉の藤原氏の台頭と繁栄から説き起こされます。奥州平泉の藤原氏の繁栄の基礎は、砂金とともに、朝廷が必要とした鷲の羽やアザラシの毛皮など北方交易の産物にありました。12世紀のこの頃は、気候も比較的安定し温暖だったのでしょうか、中央における平氏と源氏の争いが東北の地にも波及します。このあたりは、昔から義経・頼朝の確執とともに、よく見聞きしていたところです。1189年の奥州合戦は、頼朝 vs 藤原一族の戦いとして展開されたことは承知していましたが、頼朝側28万4000人に対し、平泉側は17万で迎え撃ったとのこと。この大規模な戦闘には驚かされます。おそらく、関係する地方領主ばかりではなく、都の貴族や役人たちにも武士の動員力は大きなインパクトを与えたことでしょう。それが、平泉藤原氏の奥州支配の実権を鎌倉幕府が奪取することを朝廷が承認したという背景にあったのではなかろうか。

もう一つ、北条氏の一族が関東から東北へ移り住んでいることが注目されます。これは、論功行賞の意味もあったかと思いますが、それまで奥州を支配していた人たちが北へ追いやられ、関東から東北南部に人々が移住する。大きな流れとしてはそういうことなのでしょう。

鎌倉幕府の弱体化により、奥羽北部に争乱が起こるとともに、京都の朝廷においても争いが起こり、鎌倉幕府は滅亡します。このへんの理由が今ひとつ不明瞭ですが、室町幕府が開かれても、奥州においては地域に根付き実効支配を行う有力領主に依拠するしかありません。しかも有力領主は南朝方・北朝方という都の勢力争いに結びつき、対立抗争を繰り返します。このあたりについて、本書は

南北朝時代の奥羽両国に関する古文書数を調べてみると、この宇津峰合戦(1353)を境に、大きく減少することが注目される(1333年から1353年までが約1070点、1354年から1392年までが約470点)。これは、軍忠状や着到状、恩賞を受ける手続き文書など戦争に関する資料が減るためであり、奥羽両国における大規模な戦乱は、宇津峰合戦を最後に終わりを告げたといえるだろう。(p.85〜6)

としています。この14世紀の奥羽戦乱の背景には、荘園などの土地支配の変質が大きいと考えられているようですが、もしかすると気候変動による天候不順のため、農作物の不作や貢納負担に対する不満などが背景にあったのではないか。たしかに、戦乱を領主の賢愚やわがままに帰するのは、あまりに小児的と言って良いのだろうと思います。



やっぱり、基礎がないのでなかなかハードです。よくわからない分野については子供向けの本(入門書)を読むかNHK の高校講座を聴取するという手があります。NHK の高校講座「日本史」で中世、とくに荘園のあたりの解説を聞いてみるのが良いのかもしれません。

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『大学で学ぶ東北の歴史』を読む(その3)

2022年02月07日 06時00分26秒 | -ノンフィクション
吉川弘文館から2020年に刊行された単行本で、『大学で学ぶ東北の歴史』を読んでいます。まだ古代編のところで、興味深いのは同じ東北地方でも日本海側と太平洋側では少し違うところがある点です。

日本海側では、708年に庄内に越後国出羽郡が置かれ、709年に出羽柵を拠点とする軍事行動を行い、712年に出羽国の新設と大量の移民が行われます。以後は、733年に出羽柵が秋田に移転するなど、支配域が順調に北上しているように見えます。

ところが太平洋側ではそうではない。715年に関東地方の富民1000戸(約2万人)が陸奥国へ移民しますが、それまでにない大規模なものでしたので、720年に大崎・牡鹿地方やその周辺のエミシが蜂起することとなり、この反乱で按察使(あぜち)の上毛野広人が殺害されます。これを武力鎮圧しますが、移民に対する免税・減税を行って定住・帰住を促進したほか、多賀城の創建や大崎平野における城柵群の設営、鎮兵制度の整備など、新たなエミシ支配政策を打ち出します。

このあたり、日本海側と太平洋側の違いが顕著です。ここからは推測ですが、おそらく日本海側の各地域は、以前から都と水運によるつながりがあり、比較的その支配を受け入れやすかったのではないか。一方、太平洋岸は都との距離が遠く、水運によるつながりも薄いため、強権的支配を良しとしなかったのかもしれません。

こうした人口の大きな移動は、別の側面の影響をもたらします。737年、天然痘の大流行で九州から関東までの人口の25%〜35%という死亡率をもたらします。これにより、奥州での軍事行動は止みますが、741年に国分寺建立の詔が出され、745年に東大寺大仏建立が開始されます。この大仏建立に使われる金箔の材料となる砂金が、749年に陸奥国小田郡から産出したとの報がもたらされます。これは、大仏建立だけでなく国際貿易の決済の面でも大きな影響のある出来事で、以後、みちのくの意味は大きく変化します。それは、東北支配政策の強化とエミシの反乱の激化となってあらわれました。

780年、伊路公アザマロの乱に対し紀古佐美の征討は失敗に終わります。781年に即位した桓武天皇は、坂上田村麻呂の征討によりアテルイやモレを捕え処刑します。エミシとの戦争は終わりますが、征討の終焉はエミシの強制移住政策をもたらします。800年代の半ばには、エミシ系住民の逃亡が続きますが、一方でエミシ系豪族を登用するなど、分断政策を取ります。869(貞観11)年、大規模な地震と津波災害が発生しますが、このときはさすがに「民夷を論ぜず」救済を図ったらしい。逆に言えば、それまでは民と夷とを明確に区別していたということでしょう。移住した住民と強制的に移転させられたエミシとの交代により、東北地方の支配域が南東北から北東北へ北上します。

ここからは私の推測ですが、水田農業に基盤を持つ定住スタイルは農作業や水管理など集団的活動を得意とし子供は多いほうが良いので人口増加をもたらすでしょう。一方、採集狩猟に基盤を置く移動の多い生活スタイルでは、連れ歩く必要があるため子供は少なく人口は停滞します。おそらく、古代国家の支配域の北上の根本的な理由は、そこにあるのではなかろうか。

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『大学で学ぶ東北の歴史』を読む(その2)

2022年01月07日 06時00分33秒 | -ノンフィクション
昨年の暮れから読んでいる『大学で学ぶ東北の歴史』の続きです。ノートに摘要を書きながらの読書は、しばらくぶりの感じがします。

まず、弥生時代です。中国大陸・朝鮮半島から西日本に渡来した弥生人は、稲作を伝え、金属器を用いた祭祀を行い、拠点集落をつくり戦争を行うという特徴を持ちます。これに対し、東北日本の縄文系弥生人は、稲作を行うが青銅器を用いる祭祀を行わず、縄文式の墓制に従います。戦争の痕跡は確認されず、環濠集落もありません。

東北地方では、弥生時代前期に水稲栽培を受容し、弥生時代中期には主要な沖積平野、盆地などでは広く水田農耕が行われ、多くの集落が営まれる。しかし一方で戦争が起きた痕跡はなく、有力な支配者は登場しない。また、信仰は縄文文化の伝統にあり、東北弥生社会は西とは違う構造を持っている。その後、中期の大地震と大津波により大きな打撃を受け、狩猟と採集を主たる生業とする社会に移行していく。西日本弥生社会と違って国家形成に向けての動きは認められないのである。(p.24)

ふーむ、会津盆地や山形盆地などでは、津波被害は受けなかったはず。東北地方の東側に低地性の弥生文化が成立したけれど、ある時期に津波で壊滅し、他地方は弥生文化の影響を受けた縄文式の生活が続いたと見ることもできるのでは。あるいは、中国大陸内の争い等により、先に渡来した初期弥生人の一部が後から渡来した後続の弥生人に押し出される形で東北日本に混在するようになり、文化の混合が起こったという可能性もあるかも。

続いて古墳時代です。
この頃の東北地方は、南東北と北東北ではだいぶ違い、北部では狩猟採集社会が継続しますが、南部では農耕社会の再形成が行われます。これも実は単純ではなく、一つには能登半島から会津盆地、庄内平野、米沢盆地、福島県浜通りへとつながる寒冷地対応の集約農業の流れと、もう一つは千葉県地域より東北南部全域へと集団移住した塩釜式土師器を使うのが特徴です。東北南部の農耕社会のほうが古墳文化圏となり、東北北部が続縄文文化圏と言っても良いでしょう。このあたりは、ヤマト政権によって旧来の弥生人社会(集落)が圧迫され集団移住を余儀なくされた結果ではないのか、という気もします。

このあたり、中国の南北朝時代が589年に随により統一され、618年に唐が成立し、645年に大化の改新という形のクーデター事件が起こるというように、中華の事変が周辺地域をも揺るがすというところでしょうか。その後の政治改革の影響が、東北地方にも城柵の出現という形で現れます。



うーむ、面白いぞ。大人になってから読む歴史は、実に面白い。地方史にも世界の大きな歴史の流れは貫徹する、という現象がしばしば見られますが、東北地方もその例にもれない、というところでしょうか。

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『大学で学ぶ 東北の歴史』を読み始める

2021年12月28日 06時02分08秒 | -ノンフィクション
吉川弘文館から2020年に刊行された単行本で、『大学で学ぶ東北の歴史』を読み始めました。東北学院大学文学部歴史学科編で、「日本史を東北から見るとどのような姿になるのか」「旧石器時代から東日本大震災まで」「中高生〜大人まで 東北学院熱血講義」などの帯のコピーに興味をひかれたものです。本書の構成は次のとおり。

プロローグ
Ⅰ 原始・古代
01.2つの人類のグレート・ジャーニーと日本列島 ─旧石器時代─
 人類アフリカ起源説とアジアへの広がり/新人アフリカ起源説とアジアへの広がり/日本列島への人類の到達/ナイフ形石器文化と地域性/細石刃文化と地域性
02.1.3 万年間の盛衰を乗り越えた縄文人 ─縄文時代─
 縄文時代初期の環境と文化の大変革/縄文人の食生活の大変革/縄文人の衣服と装身具/縄文人の住居と集落/縄文人の墓と祭祀/縄文時代の地域性/縄文人の交易/縄文人の対外交流/縄文時代の繁栄と限界/われわれに残る縄文人のDNA
03.東北弥生社会の成立と変遷 ─東北弥生社会の特徴とは何か
 日本列島の弥生時代の始まり/金属器を用いた祭祀/土地を巡る争いの発生と戦争/邪馬台国論争/東北弥生社会の成立事情/西の弥生文化と東北の弥生文化/東北弥生社会を襲った大地震と大津波/東北弥生社会の特徴
コラム1日本の塩神―塩土老翁神―
04.ヤマト政権の成立と東北古墳時代 ─北縁の古墳時代社会─
 初期ヤマト政権の成立/王権拡大と地方豪族/新来技術の受容と社会変化/古墳の変質と新たな王者の姿/東北古墳時代研究の始まり/古墳時代社会の成立と南北境界/東北の前期古墳/古墳時代社会の変動/律令時代への胎動
05.飛鳥の朝廷と東北
 ヤマト政権の転換と「エミシ」観念の成立/「エミシ」成立期の東北社会/大化改新と東北/城柵の出現/7世紀後半の倭国と東北/東アジア世界と「蝦夷」
06.律令国家と東北
 養老4年のエミシの反乱と多賀城の創建/出羽国の建国と出羽柵の北進/8世紀の城柵とエミシ・柵戸/天平産金/陸奥城柵の北進と軋轢/三十八年戦争のはじまりと伊治公呰麻呂の乱/桓武朝の「征夷」と胆沢エミシ
コラム2東北地方と北アジア世界
07.古代国家の転換と東北
 「征夷」の終焉とエミシ社会/陸奥奥郡の騒乱とエミシ系豪族/元慶の乱と北奥社会の変化/地方支配制度の転換と奥羽/安倍・清原氏の出現とその背景/安倍・清原氏から奥州藤原氏へ
Ⅱ 中世
01.平泉藤原氏の繁栄 ─院政時代─
 平泉藤原氏の登場/中尊寺の造営/都市平泉の発展/北方世界との結びつき/平泉藤原氏の主従制/平泉藤原氏と平氏政権
02.奥州合戦と鎌倉幕府の支配体制 ─鎌倉時代─
 奥州合戦と平泉藤原氏の滅亡/鎌倉幕府による奥羽両国の掌握/鎌倉幕府御家人制の地域的展開/東夷成敗権と北条氏所領の拡大
コラム3日本人初のエルサレム巡礼者と東北のキリシタン
03.武士団の展開と建武政権・室町幕府 ─南北朝・室町時代─
 鎌倉幕府の倒壊と建武政権の成立/北畠顕家の政権/室町幕府の多賀国府掌握と南北朝の動乱/室町幕府の支配体制と地域社会の形成
04.戦国争乱と東北社会
 東北の戦国時代の始まり/南奥羽の戦国大名・国衆/北奥羽の戦国大名・国衆/戦国大名の領国支配/戦国時代の東北の地域社会
コラム4日本地震学会とイギリス人の地震観
05.中世東北の城
 中世の城とは/南北朝・室町時代の東北の城/戦国時代の東北の城/群郭式城郭
Ⅲ 近世
01.東北近世史の幕開け
 信長・秀吉と東北/奥羽仕置と奥羽再仕置/北の関ヶ原/元和偃武と東北諸藩
02.中近世移行期の東北の城
 織豊系城郭の誕生/東北の織豊系城郭/近世城郭・城下町の整備/一国一城令以後の東北
03.藩政の展開
 大名配置の確定/地方知行制の採用/藩政確立期までの動向/中期藩政改革の展開/産育と養老をめぐる施策
04.人・モノ・文化の交流
 街道と水運/紅花の商業ネットワーク/遊学による都市文化の受容/庶民の金毘羅・伊勢参詣
コラム5イザベラ・バードの日本探検 129
05.災害と備え
 大規模飢饉の発生/飢饉のさまざまな要因/天明の飢饉の経緯/「御救山」と貯穀制度/海岸災害と防災林の造成
06.奥羽地域と「蝦夷島(現北海道)」
 「蝦夷島」に成立した日本最北の藩・松前藩の性格/松前藩と米/「松前藩」の後方支援を担わされた奥羽の有力諸藩/幕府の「蝦夷地」再直轄と奥羽4 藩の「松前・蝦夷地」警備/奥羽6 藩への「蝦夷地」の分領と新たな「蝦夷地」警備体制
07.松前交易における日本海海運の発展過程
 初期海運の性格/荷所船の活躍/北前船の台頭と発展
08.戊辰戦争と東北
 倒幕と戊辰内乱/奥羽鎮撫使の派遣/奥羽越列藩同盟の成立/同盟の亀裂/戦火にまみれる東北/戦後処理
コラム6足もとの中国―秋田の石敢当― 161
Ⅳ 近代・現代
01.明治政府の東北政策
 近代東北の創設/東北開発と資源収奪/点と線の開発と水稲単作地帯化
02.東北振興会と東北振興調査会
 東北振興会の設立と顛末/農山漁村経済更正運動と東北振興調査会の官設/東北興業株式会社と東北振興電力株式会社
03.地域・軍隊・学校
 師団制度の確立/日清・日露戦争/満州事変/地域と軍隊/学校教練の開始/総力戦体制下の軍隊と学校/太平洋戦争と東北の兵士たち/学徒出陣の開始
04.東北地方と満洲移民
 石原莞爾と板垣征四郎/移民を唱えた山形県出身者/東北地方から移民が送られた理由/満洲移民政策の実施と東北地方/災害と移民者ネットワーク/引揚者の受け入れ/満洲移民事業とは何だったのか
05.大津波災害・農村恐慌からの復興
 大津波災害の常習地域/明治三陸地震による津波からの復興/昭和三陸地震による津波からの復興/産業における創造的復興/昭和恐慌からの復興
コラム7イギリスの帝国と日本の帝国
06.近代に生まれた民俗行事
 チャグチャグ馬コとは?/現在の行事内容/蒼前参りは原形か?/蒼前参りの盛大化とその背景を考える/馬産の斜陽とチャグチャグ馬コの誕生/戦後の展開と地域の象徴、観光資源化へ/チャグチャグ馬コの歴史的展開から見えるもの
07.東北の観光開発と生活文化
 新中間層の形成と娯楽/東北の観光開発と鉄道/土産物・名物の誕生と趣味の世界/東北イメージと出版文化/版画に描かれた東北
08.戦後復興から高度成長へ
 電気事業再編成と特定地域総合開発/東北開発三法の制定とその顛末
09.原子力発電所と東日本大震災
 東電福島原発の誘致に向けて/東電福島原発の建設
10.離島にみる地域振興と観光化
 東電福島原発の建設高度経済成長と農山漁村の衰退/時代に翻弄される離島/離島の観光開発/東日本大震災と三陸の復興
11.東日本大震災の被災地における民俗行事の「復活」とは何だったのか?
 震災前における被災地の暮らしの特質/震災による被害の状況と避難生活/仮設住宅の完成と暮らしの再構築に向けて/復興支援事業による混乱/春祈禱の「復活」
コラム8情報との向き合い方―より深い学習のために―
特論
東日本大震災と東電福島第一原発事故


よりによって大雪の時期に歴史学の教科書か、とも思いますが、逆に言えば除雪に明け暮れる時期だからこそ、暖かい部屋でぬくぬくと読書三昧というのは望ましい姿です。それに、例えば縄文時代において「関東地方南西部の竪穴住居跡数の変動」というグラフの解説が興味深いものがあるように、読んでいる各時代において、いくつかの疑問が解消されています。



  • 「4200年前に発生した寒冷化によるクリ栽培などの植物質食料の不作・欠乏」(p.16)が原因と推定
  • 「中期末〜後期の東北では、イノシシ形土器製品や底にクマを弓矢で狩猟する様子を描いた狩猟紋土器が突然現れた。これは食料における動物質材料への依存度が後期に高まったことを暗示している。」

などの記述は、今までの縄文時代への理解をより具体的にするものです。火山の大規模噴火等により世界的な日照不足と寒冷化が生じ、それが縄文人の生活を脅かし、竪穴住居の数が激減する=人口を支えることができない時期が到来する、そんなイメージでしょうか。

引き続き後の章を読んでおります。受験勉強とは無関係な、大人になってからの日本史通史の講義、たいへん興味深いです。

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小和田哲男『戦国の城』を読む

2021年12月07日 06時00分27秒 | -ノンフィクション
昔からなじんでいることでも、どこかに疑問が残ることがあります。例えば大河ドラマなどでの城攻めの場面、「水の手」を落とすことが転機になりますが、山の上の城で「水の手」ってどんなもので、どのあたりにあるのだろうかと不思議です。具体的な城の姿が意外に見えていないということでしょうか。

小和田哲男著『戦国の城』(学研新書)を読みました。構成は次のとおりとなっています。

序章 城とは何か
第1章 戦国の城とはどのようなものか
第2章 戦国の城の築城法
第3章 戦国の城の普請と作事
第4章 戦国の城はどう機能したか
第5章 戦国城下町の発展と惣構
第6章 戦国の城から近世の城へ

興味深い内容がたくさんありましたが、とくに序章の「城とは何か」が興味深いものがありました。堀を掘りめぐらし、掘った土を住居側に盛り上げた形が城の基本であるとした上で、高地性集落と環濠集落に起源を求めます。古くは弥生時代にまでさかのぼり、古代には東北地方の城柵の規模がどのくらいのものであったかを教えてくれます。




南北朝時代以降には、居館とその背後に山城を築き、いざという場合には山城に移って戦うという、いわば防衛拠点であって、平時の居住の場ではなかったらしい。当然、規模はあまり巨大にはなりません。戦国時代には多様な城が築かれますが、山城、平山城、平城という区分の意味と共に、本城と支城、曲輪の配置、濠や馬出の工夫、攻城戦と籠城戦、城下町の意味など、今まで漠然とわかったつもりでいた認識が整理されます。大阪城や江戸城など近世の城は、防衛拠点としての性格から統治の中心としての性格に移っていったこともよくわかります。

ところで「水の手」の件、水源から水を引いていた例もあるけれど、どうやら城の中に深さ数十mの井戸を掘っていたようです。このあたり、築城に関する土木技術もすごいけれど、山の上に井戸を掘り当てる水源探査の能力もすごいと感心します。単なる武力だけではなく、武士とその周辺の技術集団が一体となって戦国の世を戦っていたと考えるのが自然なのかもしれません。

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増田ユリヤ『世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ』を読む

2021年11月25日 06時00分15秒 | -ノンフィクション
ポプラ新書の2021年10月新刊で、増田ユリヤ著『世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ』を読みました。現在、国内では小康状態を保っているけれど、国外ではまだまだ流行が再燃中と聞く新型コロナウィルス感染症で、重症化を防ぐ頼みの綱となっている mRNA ワクチン開発者の小伝およびインタビュー本です。

本書の構成は次のとおり。

第1章 科学者を知らなかったハンガリーの少女が研究に目覚めるまで
 カタリン・カリコ氏を育んだ母国ハンガリーの自然
 ◆カリコ氏をめぐる人々①
 ・多大な影響を与えたふたりの科学者
 ・ビタミンCを発見しノーベル生理学・医学賞を受賞したセント・ジュルジ・アルベルト
 ◆カリコ氏をめぐる人々②
 ・カリコ氏の恩師 アルベルト・トート先生に訊く
 ・ハンガリートップレベルのセゲド大学理学部へ進学
 ・学問の世界にも社会主義政権の影 研究に没頭し、仲間との時間を大切に過ごした大学時代
 ・セゲド生物学研究所での最先端の研究とは
 ・RNAの研究に着手
 ・社会主義体制下でこその悲劇
 ◆カリコ氏が生きた激動の時代を知るために
 ・ハンガリー事件とは何だったのか
 ・第二次世界大戦からハンガリー事件前夜まで
 ・民主化を求めたハンガリー市民たち
第2章 娘のテディベアにお金をしのばせて渡米 
 40年に及ぶ挫折続きのRNA研究
 ・研究費の打ち切り、新天地アメリカへ
 ・娘のテディベアにお金をしのばせて渡米
 ・研究者としてゼロからのスタート
 ・mRNAの研究で新しいタンパク質の生成に成功
 ・逆境に立ち向かい続けた研究者としての信念
 ・共同研究者ワイズマン氏との運命的な出会い
 ◆カリコ氏をめぐる人々③
 ・アメリカでの研究生活を支えてくれた娘のスーザン
 ・忍耐強く、好きなことをやり遂げるためには何事も諦めない母
 ・これまでの研究成果がいよいよ花開く
第3章 mRNA研究の画期的な発見 新型コロナワクチンの開発へ
 ・ようやくmRNAが引き起こす炎症反応を克服
 ・ビオンテックでmRNAワクチンの実現化へ
 ・新型コロナウイルスの世界的流行が起きて
 ・mRNAワクチンとは ワクチンの有効性、安全性
スペシャルインタビュー 山中伸弥教授に訊く

第1章では、ハンガリーの田舎で精肉店の娘として生まれたカタリン・カリコ氏が、解体した豚の内臓や故郷の野山の動植物、自然に関心を持ち、良き指導者を得て才能を育てていく過程が描かれます。とりわけ、小学校6年生で生物学専門の高校教師アルベルト・トート博士に出会ったことが大きな影響を受けたようで、トート先生の勤める高校に進学し、生物学研究サークルに所属して活動します。この中で、ストレス学説の提唱者ハンス・セリエ博士や、ビタミンCを発見しノーベル賞を受賞したセント・ジュルジ・アルベルト博士(*1)に手紙を書き、文通の中で著書を贈られるなどの交流をしています。若い高校生たちは、世界的な科学者に大きな励ましを得たことでしょう。高校卒業後は大学に進学し、理学部生物学専攻の仲間と共に研究に没頭し、生体防御医学を目標に RNA 研究を開始します。当時の社会主義体制下のハンガリー社会の状況もコンパクトに解説され、理解を助けます。

第2章は、ハンガリー経済の悪化から研究費を打ち切られ、研究を続けられるポストを得ようと試みる中で唯一オファーがあったのが米国フィラデルフィアのテンプル大学のポスドクだったところから始まります。エンジニアの夫とまだ幼い娘と共に、日本円にして約20万円を持って渡米します。米国でも身分は安定せず、好条件のポストへの移籍も上司の嫉妬で妨害されたり、成果が認められずに降格されたりしますが、1997年、免疫学者のドリュー・ワイズマン博士との共同研究が始まるところから研究は大きな進展を見せていきます。

第3章は、mRNA が導入された細胞が炎症反応を起こしてしまうという隘路を克服するアイデアが形になるところから始まります。そのきっかけは、mRNA では不可避であった炎症反応が、tRNA では生じないこと。注目した mRNA と tRNA の違いが、成分の塩基ウリジンの化学構造でした。すなわち、tRNA ではウリジンの構造の一部が化学修飾されており、これが炎症反応を避けるカギだったのです。ところが、この成果も研究者以外には理解してもらえない。ハンガリー訛りの英語もあって大学に冷遇され、上級研究員から非常勤に降格されることとなりますが、2013年にがん治療を目指すドイツのベンチャー製薬企業ビオンテックに上級副社長として招かれることになります。つまり、mRNA の医学への応用のねらいはがんの治療法などの技術開発だったわけで、mRNAに関する基礎研究が「たまたま」新型コロナウィルス対策のワクチンとして形になった、ということなのでしょう。



たいへんタイムリーで興味深い本です。専門的なレベルはあまり深くはなく、むしろ分子生物学や免疫学などには縁遠い一般の読者を想定して書かれているようで、スムーズに読むことができました。mRNA の医学への応用はまだ始まったばかりで、むしろ今後の展開が興味深いと感じました。
もう一つ、子供時代に動植物や自然に触れた経験や、学問に志す高校生〜大学生時代の自然科学に関する授業外(課外)活動の経験が、科学者の成長の大切な基盤となっていることをあらためて確認したところです。また、研究者の環境の悪化が頭脳流出を招くことも全く同様で、最近は米国だけでなく中国への流出が増加していることなども報道されており、なんだかなあとため息です。

そういえば、大学時代の恩師がもらした言葉で、こんな内容のものがありました。「大学に残って研究者を目指す人は、地方の高校を出た学生に多い。都会の出身の男子学生は、経済的成功へのプレッシャーが強いのか、お金にならない研究者などは目指さないように感じる。これからは女性が研究者の主役になっていくのかもしれない。」50年前の学生にそういう感想を持っていた恩師は、短期間に成果を出さないと生き残れない現在の日本の大学等研究機関の様子を見て、はたしてどう思うのでしょうか。

(*1): 私の若い時代は、アルバート・セント・ジェルジ博士と呼んでいたように記憶していますが、ハンガリー語に近い読み方なのでしょうか。

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中尾佐助『料理の起源』を読む〜その(2)

2021年11月02日 06時00分29秒 | -ノンフィクション
※昨日の続きです。

第5章「豆の料理」では、納豆の大三角形と味噌楕円の図解が興味深いものです。



日本、ヒマラヤ、ジャワを結ぶ大三角形が納豆の文化圏であり、ナレズシやコンニャク等の共通性が存在するけれど、味噌楕円は中国の華北の文化圏を表すものと言います。ここでも、日本には複数の異なる文化が何度も重層的に伝播してきているという可能性が示唆されます。

第6章「肉と魚の料理」。この章が「偏見の世界」という節から始まるのは、肉食魚食というものの特徴を端的に表しているものかも。回教徒はブタを食べず、ヒンズー教徒は牛を食べない。宗教的タブーは穀物食ではそれほど顕著ではなく、動物食に対する感情的な偏見によるものと指摘します。食肉の変遷と発達、肉や魚肉の貯蔵、スシの問題など、たいへん興味深いものです。

第7章「乳の加工」はページ数も多く、意外なほど内容が豊富です。端的に言うと、乳糖分解酵素の問題から、ユーラシア大陸の遊牧民やチベット族、インド・アリアン族など乳利用が伝播した地域と乳を利用しない地域に分かれたことが述べられ、酸乳の系列等を様々な民族の中に検討し、乳加工技術の発達と分布が位置づけられます。バター、チーズ、ヨーグルトだけではない多様性に驚かされます。

第8章「果物と蔬菜」。温帯性果樹が西部原生種群(リンゴ、洋梨、サクランボ、ブドウ、イチジク等)と東部原生種群(和梨、桃、日本スモモ、梅、柿、ビワ等)とに分けられ、中国の文化と文明の貢献を評価するところは興味深いものです。乾燥果物やナッツ類のところも面白いですし、野菜と蔬菜の貯蔵などは当地の漬物文化の多様性もあり、非常に興味深いテーマと感じます。

著者が提唱した「農耕文化基本複合」という概念は、要するに新しい食べものは種や実が伝えられるだけではなく、栽培技術や調理法なども一緒に伝わるものだ、ということでしょう。たしかに、私が子供の頃には当地でゴーヤを栽培し料理し食べる習慣はありませんでしたが、今では畑にゴーヤを植え、ゴーヤチャンプルーやゴーヤの佃煮を好んで食べているほどです。作物の栽培は農学で、調理法は家政学でというふうに画然と分けてしまうのは、実はあまり賢明なやり方ではないのかもしれません。

総じて、文化人類学、民族学的な学術的内容をたいへん興味深く解説した、充実した内容の本であり、読み飛ばせるレベルではありません。ある程度は時間をかけて、様々な知識や経験を総動員して読むべき本のように思いました。残念ながらNHKブックスでは絶版となっているそうですが、吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズで復刻されているらしいです。

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中尾佐助『料理の起源』を読む〜その(1)

2021年11月01日 06時00分54秒 | -ノンフィクション
NHKブックスで中尾佐助著『料理の起源』を読みました。著者の本は、学生時代に岩波新書『栽培植物と農耕の起源』を興味深く読んでおり、本書が二冊目になります。1972年第1刷発行で、1999年の第36刷となっており、写真図版はやや版の鮮明度が低下しておりますが、今回もまたたいへん面白い。いわゆる実用的な料理本とはまるで違い、文化人類学における「農耕文化基本複合」概念の提唱の続きとなる、知的好奇心が満たされる興味深い内容でした。

本書の構成は、次のとおりです。

  1. 米の料理
  2. 麦の料理
  3. 雑穀の料理
  4. 穀物料理の一般法則
  5. 豆の料理
  6. 肉と魚の料理
  7. 乳の加工
  8. 果物と蔬菜

第1章「米の料理」では、日本における米の炊き方の歴史的な変遷と、中国や東南アジアなど米食地帯における米の炊き方の違いを検討し、米の品種系統と共に炊き方における複合文化圏の存在を指摘します。たしかに、通常のお米の炊き方と「おこわ」や「もち米」の「蒸す」調理法とは異なります。米や調理法が複数回の伝播によって伝えられたことが、異なる文化の混在になったのかもしれません。
第2章「麦の料理」では、パン、ナン、饅頭、うどん等の麦料理の地理的分布を検討します。日本の「餡パン」と中国の「ローピン」の類似性の指摘もあり、発想のルーツは案外そんなところにあったのかもしれません。また、麦の種類にしても、小麦、大麦、えん麦、ライ麦などたくさんの種類があるわけですが、栽培や収穫が容易な大麦が主流にならず小麦が主流になる理由も、麦の調理法の転換が背景にあるとするとらえ方は説得的です。
第3章「雑穀の料理」では、アフリカで主食とされる雑穀粉末を用いたダンゴやエチオピアの発酵食品インジェラ、アメリカ大陸由来のトウモロコシを用いた「粉粥」、あるいはチマキ類などが紹介されます。
第4章「穀物料理の一般法則」では、1つの調理法に対しその材料の種類が増加してくることを「材料の発散」と呼び、逆に昔は様々な材料で作られていたのにその調理法はその材料でしかもちいられなくなることを「材料の収斂」と呼びます。日本のチマキなどはこの良い例でしょう。同様のことが調理法にもあてはまり、「調理法の発散と収斂」と呼びます。日本の味噌は、元来は大豆のものがしだいに米麦へと材料の発散が起こったと解釈するわけです。新石器時代に様々な穀物に発散した材料が、歴史時代に入ると穀物の種類が修練してくるという理解でしょう。もちろん、それぞれの地域で平行進化した結果であるという理解もありえますが、チャパティは粉質の問題で発酵食品への進化が遅れてしまったものとみなす見解は説得力があります。

※後半は、次回に続きます。

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『プロコフィエフ自伝/随想集』を読み、いくつかの音楽を聴く

2021年09月09日 06時00分18秒 | -ノンフィクション
音楽之友社から2010年に刊行された単行本で、『プロコフィエフ自伝/随想集』(田代薫:訳)を読みました。伝記的事項については、若い頃に購入した同社『大音楽家■人と作品シリーズ』中の一冊、井上頼豊著『プロコフィエフ』(昭和53年発行第3刷)などである程度は承知しておりましたが、作曲家本人の書いた自伝であればそれは興味を惹かれます。本書の内容は、タイトル通り「自伝」と「随想集」に分かれており、前半の自伝については、

I. 幼少時代
II. 音楽院を終えて
III. 外国での年月
IV. 母国への帰国後

となっています。「母国への帰国後」については、完全にソ連に帰国定住した1936年あたりまでの内容となっており、「アレクサンドル・ネフスキー」の音楽あたりまでですので、後年の作品についてはもちろん言及はありません。それでも、「無邪気な悪ガキ」的な雰囲気は充分に感じられる内容、書き方です。

随想集で特に興味深かったのは、「メロディに終わりはあるか」という考察。有限の音の組み合わせに、いつか終わりが訪れるのか、という問いに対して、まずチェスの指し手について考察し、次に作曲について考察していきます。これは面白かった。

それ以上に興味深かったのは訳者の「あとがき」で、プロコフィエフの最初の夫人リナが逮捕され労働キャンプに送られた経緯について、息子スヴャトスラフ・プロコフィエフに尋ねた内容でした。リナはスペイン人とポーランド人のハーフで、スペイン生まれアメリカ育ち、1923年にドイツでプロコフィエフと結婚、モスクワで生活していても夫の助言を入れず外交官の知り合いと友人関係を続けていたために1948年に偽りの電話で外に呼び出され、スパイ容疑で逮捕されて労働キャンプに送られたようです。このときプロコフィエフとリナは別居して七年になっていたそうで、母と暮らしていた二人の息子は父親に相談に行きます。ところがリナを助けたいと思っても、プロコフィエフはジダーノフ批判を受けて作品の演奏が禁止され、収入もなく暖房用のオイルも買えない状態で助けようもなかった、というのが当時大学生だった息子の話でした。

うーむ、これはプロコフィエフ嫌いの人がよく言う「最初の妻を当局に売って二番目の妻と結婚した男」という悪評とはだいぶ違うようです。子供たちを追ってヨーロッパに戻ったリナは、ロンドンにプロコフィエフ基金を設立、1989年にリナが死去した際に、彼女が大切に保管していたプロコフィエフの日記、手紙、写真などが発見されたとのことです。貴重な証言だと思います。



本書に登場する曲名も若い頃のものになるのは当然ですが、それでも「三つのオレンジへの恋」「ヴァイオリン協奏曲第1番」「古典交響曲」「ピアノ協奏曲第3番」など、今でもよく聴く音楽です。

Prokofiev: The Love for Three Oranges Suite, Ormandy (1963) プロコフィエフ 三つのオレンジへの恋 オーマンディ

ヴァイオリン協奏曲第1番 - オイストラフ(Vn) コンドラシン指揮モスクワ・フィル (1961)
Prokofiev - Violin concerto n°1 - Oistrakh / Moscow PO / Kondrashin

ピアノ協奏曲第3番 - プロコフィエフ自身のピアノで (1932)
Prokofiev Plays His Piano Concerto#3 in C Major-Op 26


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審良静男・黒崎知博『新しい免疫入門』を読む

2021年07月10日 06時01分41秒 | -ノンフィクション
新型コロナウィルス禍への決め手となる mRNA ワクチンの接種を受けて、自分の体内でどのような免疫反応が起こっているのだろうと興味を持ち、手頃な一般向け入門書を探しました。図書館で見つけたのが講談社ブルーバックス中の一冊、審良静男・黒崎知博著『新しい免疫入門〜自然免疫から自然炎症まで』です。少し読んでみたところ、これは決して「易しい」入門書ではないと感じて、まずはNHK高校講座「生物基礎」のビデオ映像で、高校レベルの基礎知識を得て、こんどはなんとか理解できるようになりました。やはり、はじめに全体像をイメージできるということが大きいようです。

本書の構成は、次のようになっています。

プロローグ
1章 自然免疫の初期対応
2章 獲得免疫の始動
3章 B細胞による抗体産生
4章 キラーT細胞による感染細胞の破壊
5章 三つの免疫ストーリー
6章 遺伝子再構成と自己反応細胞の除去
7章 免疫反応の制御
8章 免疫記憶
9章 腸管免疫
10章 自然炎症
11章 がんと自己免疫疾患

内容のレベルとしては、高校「生物基礎」レベルをはるかに越えているのは当然としても、どうやら学部学生以上、生物学の素養のある読者を想定し、読者が免疫システムの全容を動的に把握しやすくするために、ぎゅっと圧縮して記述したような印象を受けました。文章はわかりやすく明快ですが、語られている内容は元理系爺さんにもかなりハードです。

以下、個人的に印象に残った点を書き留めておきましょう。

第1章:病原体(異物)が侵入すると、マクロファージなどの食細胞がこれを食べ、警報物質サイトカインを放出します。このとき、何でもかんでも無差別に食べるのではなく、TLR というセンサーで病原体を感知しているらしい。TLR も何種類かあって、ウィルスの2本鎖RNAは TLR3 が、1本鎖RNAは TLR7 が認識するそうです。

第2章:マクロファージ以外にも、リンパ節には樹状細胞という食細胞があり、これが病原体を食べると、抗原となるタンパク質断片のペプチドを細胞表面に掲げます(抗原提示)。警察で言えば、手配書でしょうか。この抗原提示した樹状細胞がリンパ節でナイーブT細胞に結合し、ヘルパーT細胞またはキラーT細胞として抗原提示が伝わります。手配書が警官から県警の刑事に渡るようなものか。

第3章:ヘルパーT細胞は、増殖して食細胞をさらに活性化すると共に、別途、病原体を食べて抗原提示しているB細胞と結合してこれを活性化させます。このときT細胞がもっている抗原提示(手配書)とB細胞がもっている抗原提示(手配書)とは、同じ病原体でもどうやら違うところを見ているようで、「敵」を見誤らないようになっているようです。そしてB細胞はさらに増殖して数を増やし、抗体産生細胞となって、病原体に対する抗体を放出する、というしくみです。

第4章:いっぽうキラーT細胞は、食細胞が手を出せない、感染してしまった細胞を殺しますので、こういう物騒な名前がついているらしい。なぜ病原体を殺すのではなく感染細胞をまるごと殺してしまうのか。それは、要するに病原体の増殖を止めるには、取り付いている感染細胞ごと消してしまったほうが良い、ということなのでしょう。まるごと禍根を立つ、というわけです。

第5章以降では、T細胞、B細胞ともに、免疫記憶細胞として少数がリンパ節に落ち着き、次に同じ「敵」がやってきたときには、すぐにハイレベルの出動ができるように準備される免疫記憶が印象的。また、免疫寛容や胸腺における「負の選択」、免疫反応の制御などの詳細は、実にうまくできていることに驚くものの、当面の新型コロナウィルス禍やmRNAワクチン接種と免疫反応などの関心からは少し焦点がずれますので、さらりと読みました。本当は、痛風など自己免疫疾患やがんの免疫による治療などは興味深いテーマではありますが。

いずれにしろ、「免疫力を高めればコロナも撃退!」みたいな言い方がかなり不正確というか、誤解を誘導する表現だと感じられます。怪しげな健康法や反ワクチン論が一定の影響力をもってしまうのは、国民のかなりの部分が、今まで免疫に関してきちんと習ったことがないということに素地があるのかもしれません。それは、大部分の政治家も役人も経営者もマスコミも同じことでしょう。願わくは、今の高校生など若い人たちが良識をもって社会の中心となる時代には、今よりも真っ当な政策が展開されていますように。



本書はレベルが高いけれども免疫に関する入門として良い本であると感じますので、図書館に返却後も自分の手元におきたいと考え、行きつけの書店に注文しました。12日(月)に入荷するそうです。

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永田和宏『タンパク質の一生〜生命活動の舞台裏』を読む

2021年05月19日 06時00分47秒 | -ノンフィクション
岩波新書赤版で、永田和宏著『タンパク質の一生〜生命活動の舞台裏』を読みました。2008年の6月に第1刷が刊行され、私が手にしたのは2012年1月発行の第7刷。順調に刷を重ねている、私より5歳上の、岩波らしい碩学による一般向け解説書です。

本書の構成は次のようになっています。

はじめに
第1章 タンパク質の住む世界―細胞という小宇宙
第2章 誕生―遺伝暗号を読み解く
第3章 成長―細胞内の名脇役、分子シャペロン
第4章 輸送―細胞内物流システム
第5章 輪廻転生―生命維持のための「死」
第6章 タンパク質の品質管理―その破綻としての病態
あとがき

第1章では、タンパク質の役割と細胞の構造、細胞の共生進化、DNAの共通性などがかいつまんで紹介され、第2章はDNAを中心とするセントラル・ドグマの解説となります。このあたりまでは、ほぼ50年前の学生時代に習った生化学・分子生物学の知識でなんとかなる部分で、違いと言えば昔のセントラル・ドグマは

DNA→mRNA→タンパク質

で済ませていたのを、現在は

DNA→mRNA→ポリペプチド→タンパク質

の4段階とし、ポリペプチドのフォールディング(折りたたみ)を重視しているところでしょう。

たしかに、共立出版の雑誌『蛋白質・核酸・酵素』が「アロステリック酵素」を特集していた50年前には、mRNAによって伝えられた情報をもとに作られたポリペプチドは、自動的に熱力学的に最も安定な形に再構成されて蛋白質となる、とされていましたので、フォールディングがそれほど重大なものとは認識していませんでした。ところが第3章では、この「折りたたんで形を作る」ことが「自然に」行われるのではなく、細胞内では分子シャペロンが望ましい形に折り畳まれていくことを介添えすることが述べられます。このあたりは、細胞内構造の重要性とも相まって、認識を新たにしたところです。

もう一つ、第4章ではリボソームで作られた蛋白質が本来の「赴任地」へ運ばれていく仕組みが説明されます。ここでは、膜蛋白質の重要性と小胞体やゴルジ体の役割、貨車輸送に喩えられるモータータンパク質や小包の宛先の表し方、外部から内部へ取り込むエンドサイトーシスの仕組み、インスリンやコラーゲンの場合、HSP47の発見と分子シャペロンとしての役割など、本書の白眉と感じられるところです。

第5章は、輪廻転生に喩えられる蛋白質の生成と分解、再利用の話です。これまでずっと動物の光周性は不思議な現象と思っていましたが、細胞周期が蛋白質の分解によって決まるあたりはなるほどと説得的です。第6章は、人間社会との安易なアナロジーを戒めつつ、製造ラインの停止、修理と再生、廃棄処分、工場閉鎖に喩えられる蛋白質の品質管理のシステムを紹介しますが、実にわかりやすいものです。当然、品質管理の破綻としての様ざまな病態についても、実に説得的です。



私にとって、これは実に有益な一冊でした。分子生物学、細胞、遺伝子などに興味関心を持つ人にとって、自分の知識をアップデートするにはたいへんに有益な本のようです。いまさらワトソン『遺伝子の分子生物学』の高価な新版を購入するまでもない、昔、その分野をかじったことのある人には絶好の本と感じました。この分野に全く不案内な人には、必要とされる予備知識の面でちょいと辛い本かもしれません。

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