電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

宮城谷昌光『新三河物語(中)』を読む

2012年10月02日 06時03分36秒 | -宮城谷昌光
新潮文庫の宮城谷昌光著『新三河物語』(中巻)を読みました。この巻は、東三河から今川の勢力を一掃し、力をつけてきた家康に対して、甲斐の武田信玄が動きます。織田信長も、武田信玄に対しては、真っ向から対戦しようとはしません。三方原で一蹴された家康でしたが、信玄が病に倒れ、息を吹き返します。

大久保一族では、前巻で器の大きさと渋い味を見せた常源が後方に退き、忠員の子・忠世と忠佐が中心となって奮戦しますが、平助が成長し、器量の大きさを見せ始めます。この平助こそ、本書の中心的な主人公と言ってよいのでしょう。

小説としての陰影をもたらしているのが、一向一揆の際に家を去った妻と娘を探し続ける忠佐の姿でしょうか。変名を用い、怪しげな法体の男の姿がちらつく妻に、割り切れない思いを持ちつづける壮年の男の姿は、ドラマティックです。実父か養父かわからぬ父・忠佐を慕って、ともに暮らすことを望んだ娘おやえの存在が、貴重です。

武田勝頼の描き方は、なんともお気の毒。武田家を滅ぼした人ですから、後世の人には厳しく評価されるわけですが、まあ、若気の至りでしょうなあ。

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宮城谷昌光『新三河物語(上)』を読む

2012年09月27日 06時02分27秒 | -宮城谷昌光
宮城谷昌光という作家は、息子が高校生の頃に教えてもらったのがきっかけで読み始めました。もっぱら『太公望』や『孟嘗君』などの中国古代を舞台にした物語に親しみましたが、近年は日本国内を舞台にした小説も手がけているようで、興味深く読んでいます。この『新三河物語』もまた、『風は山河より』と舞台を共にするもので、多面的・重層的な描き方を得意とする作者らしい作品となっています。

本書は、徳川家康の家臣、大久保氏の一族、とくに大久保忠俊(常源)、大久保忠員とその息子である忠世、忠佐、忠教(平助)らの姿を通して、松平元康から徳川家康への変化を描いていきます。

上巻では、今川義元に酷使される三河松平家とその家臣たちが、桶狭間での今川義元の横死をきっかけに独立するものの、一向一揆の内乱に突入してしまいます。同じ一族が分かれて殺しあう戦は酷いもので、このままでは三河の国が崩壊してしまいます。一揆の首謀者を許そうとしない家康に、常源(大久保忠俊)は、

御手さえ広くなれば、何をなさろうとも、おもいのままになるのですから、ただいまは、なにかと仰せらるるところにあらず

と言います。家康はこれを受け入れ、一揆は沈静化しますが、これは常源のほうが器が大きい。しかし、家康がさすがなのは、すぐに八面城を攻めることに切り換えるところです。内乱の余波は、新たな共通目標で、鎮めることができる、ということでしょうか。

一読しただけではなかなか把握しにくいという点は、この作品だけでなく、宮城谷昌光作品に共通する傾向ですが、地図や系図などを参照しながら再読すると、戦国の群像がくっきりと浮かび上がります。この点は、作者の特徴でしょう。力作です。

もう一つ、新潮文庫の中でも、本書の活字の大きさ、組版のゆったりとした加減は、格別に読みやすく感じます。想定する読者層が中高年だからでしょうか、ありがたい配慮です。
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宮城谷昌光『天空の舟~小説・伊尹伝』下巻を読む

2010年07月01日 06時05分23秒 | -宮城谷昌光
文春文庫で、宮城谷昌光著『天空の舟~小説・伊尹伝』下巻を読みました。
野に隠棲する主人公の摯(シ)に、商の湯王は三度使者を遣わして不首尾となり、今度は三度出向いてようやく首尾を得ます。それには摯のほうで条件があり、商が夏と和し、入朝すること、内政に重点をおき、民の疲弊を癒すこと、などを認めることが必要でした。摯は自ら夏への入朝の使者として立ちます。夏王朝は、かつての盟友である昆吾と対立していました。昆吾の窓口となった者は次々と悲劇的な最後を遂げます。暴君・桀王を支える劣悪な家臣たちは、昆吾と商を争わせ、共倒れにさせることで夏王朝の安定化を図ろうとします。商王・湯が凱旋して民衆の歓呼の声を受けているころ、摯は夏王の命により、南方に象牙の収集に追いやられ、湯王は捕えられて夏台に幽閉されます。

しかし、多量の象牙の贈り物が効力を発揮し、夏台の扉は開き、湯王は釈放されます。ここから、夏を倒し、商が王朝を開く戦いが始まったのでした。

風采のあがらない、目立たない摯が、伊尹として活躍する様子は、洞察力と判断力に優れていただけでなく、情報網を重視していたことを想像させます。料理人から宰相へ。なかなか面白い物語ですが、商の宗教的性格が、後の太公望による商周革命につながると思えば、一面的な評価はできないのかもしれませんが、サクランボ収穫の合間に、じっくりと読んだ古代中国の物語は、なかなか重厚な味わいのある作品でした。

(*):宮城谷昌光『天空の舟~小説・伊尹伝』上巻を読む~「電網郊外散歩道」
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宮城谷昌光『天空の舟~小説・伊尹伝』上巻を読む

2010年06月21日 06時13分55秒 | -宮城谷昌光
梅雨に入り、蒸し暑い時期には、早朝に起き出して読書をするに限ります。歯の痛みの原因も判明し、朝のコーヒーも普通に飲めるようになりましたので、心安らかに読書三昧を楽しむことができます。このところ、文春文庫で宮城谷昌光著『天空の舟~小説伊尹伝』の上巻を五年ぶりに再読しておりました。作者のデビュー作だそうで、重厚な雰囲気を持つ作品です。

大洪水により壊滅した村で、空洞を持つ桑の大樹に乗った嬰児が伊水から東に流され、下流の国の君主の娘に発見されて救われます。桑の木から生まれた赤子は日の生まれ変わりとされ、料理人の夫婦を養父母として育てられますが、少年期に牛の解体に非凡な技を見せます。この少年が、この物語の主人公の摯(シ)、後の伊尹です。時は古代夏王朝の末期で、夏から商へ王朝が交代する革命期です。
夏の帝発は、少年の非凡さに目を留め、摯を宮中に招きますが、非道な嗣子桀により迫害されます。養父の死去により摯が帰国していた折に、商が反乱を起こしますが、誤解が誤解を生んで、有シン氏の国も反乱に呼応したとして、夏王と昆吾の連合軍に包囲されます。その頃、夏の帝発は薨去し、桀が即位していたのでした。あまりの驚きにどうやら脳溢血で倒れたシン后の嗣君はただうろたえるばかりです。摯は、美貌の后女・妹嬉を桀に差し出すことで全滅を免れることができると秘策を嗣君に提案し、事実そのとおりになるのですが、摯は冷遇され、街の外で様々に工夫しながら荒地を開き、農耕に従事し隠遁生活を送ります。

時は移り、兵車を有する商の力は増大し、夏の軍は敗退します。シン邑も商に制圧され、后の娘とともに摯も商軍に送られますが、摯はスキを見て脱出し、夏に逃げます。桀の正妃となっていた妹嬉は、実家が敵である商に寝返ったとされ、夏王の宮廷から離宮に移されますが、彼女は摯を連れていくのです。

再読とはいえ、登場人物も多く、ずいぶん移動も多いので、地理的な把握ができないとイメージをつかむのが難しくなります。文庫本の目次の後に添えられた「夏代末期概念図」を色鉛筆で塗りわけながら、古代中国の歴史に思いを馳せております。
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宮城谷昌光『沙中の回廊(下)』を読む

2010年01月08日 06時19分57秒 | -宮城谷昌光
ぎっくり腰療養読書記録の続きです(^o^;)>poripori
文春文庫で、宮城谷昌光著『沙中の回廊』下巻を読みました。

「余炎」
晋の襄王が若くして亡くなると、例によって後継争いが起こります。襄公の子はまだ幼く、文公の子を擁立しようというのですが、有力大夫の中で仲の悪い趙盾と孤射姑とがそれぞれ公子雍と公子楽を推す、という具合です。士会は趙盾の命により、先蔑とともに秦に公子雍を迎えにいくことになります。しかし、秦に滞在する間に、晋国内では権力闘争が起こり、趙盾が権力を確保します。
ところが後継問題は別の展開を見せ、襄公の幼君を立てようと、生母が大夫たちに泣き落としに回っているのです。趙盾は結局方針を一転させ、公子雍ではなく幼君(霊公)を立てることにします。
でも、それでは士会の立場がありません。士会は晋を去り、秦に亡命します。不遇の公子雍は、わずかに慰められます。士会は、郤缺の助けで家族を秦に呼び寄せることができました。また、秦の康公に戦略眼を高く評価され、秦の軍事顧問になります。

「惜暮」
士会の助言をもとに、秦の康公は晋の邑を取りますが、それは秦が当方に足掛かりを築くには要になる地点でした。さらに晋との直接対決を制した康公は士会を信頼し、戦においてさえ民を大切にするという士会の考え方を学びます。一方、晋の側から見れば、今まで晋に勝てなかった秦が急に強くなったわけですから、士会の存在は困ったものです。
そこで、郤缺は策略をめぐらし、士会を強制的に帰還させてしまいます。康公の温情によって、家族の帰国も許されますが、晋での士会の立場が不遇なことは変わりがありません。しかし、郤缺の信頼と支持を得て、士会の立場は次第に重くなります。楚では英傑な荘王が立ちますが、晋の霊公は趙盾に八つ当たりするばかりです。

「新生」
郤缺の子・郤克は、往時父を助けた士会が秦に亡命することで義を貫いたことで興味を深め、その戦略と人格を尊敬します。士会は、この親子を頂点とする郤家との交流を深め、先氏とはしだいに距離を置くようになります。正卿の趙盾は、楚と戦って敗れますが、君主である霊公の命に従わず、勝手に諸国会同に出席する始末。霊公は趙盾に殺意を抱き、酒宴の席で暗殺を図ります。
かろうじて脱出した趙盾は国外へ逃亡しますが、趙氏の一族の暴れ馬である趙穿は霊公を斬殺させます。郤缺と士会は、趙氏と王との間の暗闘を、暗澹たる思いで見守るのでした。

「旗鼓」
趙盾が正卿の座に戻り、文公の子で襄王の弟を周から迎えることになります。しかし、その迎えの使者が暗殺者趙穿とは、あまりといえばあんまりな話です。こうして即位したのが成公。趙盾は辞意を表明し、正卿の座には荀林父が就任します。士会はようやく第四位の地位、上軍の佐に任ぜられます。上軍の将は先軫の曾孫の先穀ですが、彼はまだ若く傲慢な若者です。士会は、翌春の鄭の攻略を念頭に情報収集にあたらせます。士会の戦略決定には、この情報網の存在が大きいようです。
士会は、成公の初の親征を意義深くするために、鄭を越えて楚の国境を越えて攻め入り、諸国のどぎもをぬきます。もちろん、鄭はびっくりして晋と訂盟を行い、成公の名を高からしめます。
楚の荘王は士会の役割を見抜き、鄭を攻めずに周都を目前にするところまで侵攻し、観兵式を行って圧力を加えますが、王孫満に「天命は改まらず、鼎の軽重を問うべからず」と言われ、しりぞきます。
そして晋では、荀林父から、士会の最大の理解者・郤缺へ正卿が委ねられます。

「敖山」
諸候会同の地で、成公が没します。せっかく良君を得たのに、と郤缺は残念がりますが、先穀と共に太子を立て、これが景公となります。鄭を攻めた楚王に対し、救援の軍を発した晋は、郤缺を中心に楚軍を撃破します。敵将は士会と知った楚の荘王は、徹底して退却し、彼方に去ります。郤缺の努力もあって、狄は晋に服属することとなりますが、郤缺は逝去し、再び荀林父が正卿となります。
しかし、荀林父の優柔不断は先穀の暴走を許し、再び鄭を攻めた楚との戦において、最悪の敗戦を招いてしまいます。敗走する晋軍のしんがりを士会がつとめ、要所に伏兵を配して楚軍を撹乱し、見事に退きます。

「大法」
敗戦の責任を取らせるため、元帥の荀林父を処罰すべし、という声に、士会の甥で法を司る士渥濁は、諮問に対し「不可なり」と答えます。荀林父は、背後に士会の恩を知ります。大敗の原因を作った先穀は、懲りずに諸候会同に出かけますが、帰国すると周囲は冷たい。不安を感じた先穀は赤狄と共謀して晋を乗っ取ろうと企てます。しかし結局は逮捕を拒んで族人と共に滅亡します。覇権を失った晋の景公は、活眼を得た荀林父と士会をたのみますが、楚の荘王に対抗する力はありません。しかし、荀林父は赤狄との戦いに勝ち、景公は少しずつ自信を回復します。
安心したように荀林父が逝去すると、士会が正卿の座に座り、景公の計らいで、士会は周王により正式に晋の正卿として認定されます。士会は、周王室の内紛を調停し鎮めますが、その宴席で典礼にまごつき、帰国後に晋国内の法を再整備し、范武士の法として晋の国法の骨格の一つとなります。



長寿の士会の姿は、武将というよりはむしろ文治の政治家に見えます。「徳の力は武に優る」と帯にありましたが、士会という武将の特異な点は、貧しい庶民の心情を知るとともに、各国の情報を集めそれをもとにして戦略を構築していたことでしょう。「情報とその分析により、徳の力は武に優る」と言うべきでしょう。現実には、とんちんかんでは人徳は馬鹿にされるだけかもしれません(^o^)/
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宮城谷昌光『沙中の回廊(上)』を読む

2010年01月07日 06時11分16秒 | -宮城谷昌光
ぎっくり腰で寝ている間は、ひたすら文庫本を読むしかありませんでした。昨年、読んだばかりの宮城谷昌光『沙中の回廊』が枕元にありましたので、こんどはじっくりと、文春文庫版の同書・上巻を読了しました。

「孤舟」
かつて晋の大司空(今なら建設大臣?)の地位にあった士家は、王の老害により嗣子が死亡し、公子が亡命しても厳正中立を保ったために、恵王からも文公からも重用されず、衰退の家となっていました。末子の士会は、文官の家に生まれながら武術を尊び、その腕前と強さは折り紙付きです。
ある夜、臣下の反乱によって文公は行方不明となります。士会と従者の弗はその捜索に加わり、舟の中に重傷を負った敵将らしい男を見つけますが、応急処置をして舟を河に流します。文公は隣国に逃れ、無事でした。文公の帰国後、重臣である先軫の命により、ある娘の護送を命じられます。

「戦雲」
周王の娘・叔姫を護衛し、士会ら一行は周都に到着します。周王の弟が兄に叛き、后と密通していることを叔姫が知ってしまったために国を逃れるはめになり、今また父王に報せるために国に戻ったのでした。士会は叔姫の身分を知らず心を寄せ、叔姫もまた、別れに玉を贈ります。晋に戻った士会は、学問にも目を向けるようになり、家臣を大切にしながらじっと機会を待ちます。その機会は、文公が周の内紛を解決し、中華の覇者の立場を知らしめる大きな戦としてやってきます。

「城濮」
楚の成王は宋を攻めさせ、魯軍もこれに連動して斉を攻めます。中国大陸東部における南北の争いです。しかし、陸続きで妨げるものもない中国では、斉が楚に屈伏するということは、晋と秦と周という中国西部が圧迫を受けることであり、その矢面に立たされるのは宋です。軍事強国である楚を相手に、晋は戦いを決意します。ただし、直接対決を避け、楚が従えたばかりの二国、曹と衛を攻めることで、宋と斉は攻撃を避けられる、という先軫の戦略です。曹を攻めた士会は、偶然にも叔姫とうりふたつの娘・叔嬉を助けますが、これこそ実は周王の双子の娘の一人で、叔姫とそっくりなのは当然のことなのでした。そして、晋と楚の対決は、城濮において始まります。

「祥雲」
楚軍の強さは本物ですが、強さをたのむ楚将・子玉に対し、晋の先軫は二重三重の作戦で負けない戦を構築、ついに勝利をおさめます。士氏の集団戦法の強さを目にとめた文王は、士会を車右に大抜擢、士会はついに一介の零落氏族の末子から大夫になるのです。家の新築、家臣の増募とともに、叔嬉との婚礼が実現します。

※ただし、それまでの話の流れでは、周の襄王の娘の叔姫は、大叔の乱で横死したことになっていたのに、今回の花嫁はどうも叔姫のようなのです(p.232)。
そのころ嬉家の深窓には、士会の妻とよく似た、足に火傷のあとのある女がひっそりと暮らしていた、というのですから、著者はたぶん途中で気が変わってしまったのでしょう。不遇な双子の娘はやっぱり不遇なままなの?著者のこの想定は、なんとも気の毒。王女は亡くなり、日陰の存在だった双子の娘が幸福になる、それでよいのではないかと思ってしまうのですが(^o^)/

「離愁」
かつて文公を殺そうと乱を起こした郤家の子・郤缺が、許されて文公に再び仕えるようになります。郤缺が命を拾ったのは、負傷したところを士会に助けられたからでした。文公の急死に際し、秦は鄭を取るために軍旅を発し、喪中の晋を通過します。しかし、策は鄭に露見し、秦軍はUターンします。二つの丘の間を通過する秦軍に攻めかかる姜戎氏の騎馬兵と晋軍の猛攻はすさまじいものです。しかし、多くの犠牲をはらって捕えた秦の三将を、まだ若い襄王は夫人の言に迷い、解放してしまいます。
「あなたが決定者だ、今すぐ判断を」というのは詐欺師の常套文句ですが、襄王もこれにやられたのかもしれません。誤った王の判断に怒り、王を侮辱した先軫は、箕を助けるために狄兵のただ中に入り、戦死します。名将らしい責任の取りかたと言えるでしょう。

「分流」
世代交代が進みます。文公に従い覇権を守り抜いた老臣が亡くなり、その後継者たちが登場しますが、理想を追うあまり、政治はあたたかさを失います。士会は武力の限界を感じ、書物を読み、父祖の事蹟を聴きます。やがて、襄公の死去が士会の運命を一変させるのでした。

老練な将軍であり政治家である先軫のもとで次第に成長する士会の物語です。この巻は、はじめは武将として頭角を現し、しだいに軍事と外交を通じて文治を理解していく過程と見るべきでしょう。
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宮城谷昌光『風は山河より』第5巻を読む

2008年03月13日 18時32分25秒 | -宮城谷昌光
最近、風邪をひいたのか、ひどく咳こみます。昨日のうちに休みを取っておりましたので、本日はゆっくり朝寝坊をして、一日休養しました。おかげで、少しずつ読んでいた宮城谷昌光著『風は山河より』第5巻を読み終えることができました。

歴史小説というのは、だいたいにおいて、悲劇の英雄(義経)、立身出世(秀吉)、互角の名勝負(謙信と信玄)、忍耐自重(家康)などの違いはありますが、それなりに華々しい、雌雄を決する合戦の場面を持っています。ところが、この物語がいっぷう変わっていると感じるのは、守城の戦いを主な場面にしている点です。「見事な籠城戦」という形容自体が、ずいぶん新鮮な視点です。

面白かったのが、武田信玄の襲来を予想し、大野田城に住みながら、近隣に樹木に隠された野田城を別に築いていた周到さです。これが、銃砲の時代に対応した堅固な城で、武田信玄の攻撃を受けてもびくともせず、一ヶ月も野田合戦という籠城戦を展開し得た理由でした。さらに、武田の金堀り衆により水の手を断たれ、菅沼側が絶体絶命になったとき、野田城側の求めどおり水を与えた信玄の対応。そして「水を断たれて降伏せず、水を与えられて降伏する」という菅沼新八郎の心意気、人質の交換による主従の再会。まるで、歌舞伎の一場面のようです。

あらすじは省略いたします。というよりも、もう一度読まないと、同じような名前が頻出し、どういうストーリーかを充分に把握できていない、といったほうが正しいかもしれません(^o^)/
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宮城谷昌光『風は山河より』第4巻まで読み進む

2008年03月08日 14時44分38秒 | -宮城谷昌光
北国も、ようやく暖かくなりはじめました。このところ、就寝前に少しずつ読んでいた本、宮城谷昌光の『風は山河より』、ようやく第4巻まで読了。東三河の野田城主、菅沼貞則、定村、定盈と続く菅沼三代の物語、家康に連なる松平家との関わりなど、なかなか面白いです。桶狭間の戦いが転機となり、松平元康が今川家から独立し、菅沼新八郎定盈もまた今川家から離反し武田信玄の駿遠侵攻により今川家が滅ぶまで、苦難の時期を送る前後が描かれるのが、第3巻・第4巻。図書館から借りて来たものですので、本日返却に行くところです。

歴代の名前がみな似ていて、判断に苦しむところがありますが、昔はみなそんなものでした。わが家でも近年まで同じような名前を襲名していたようですし、何代目の◯◯◯とか、村の役職名◯◯をした誰某とかで判断をしておりました。

ひきつづき、第5巻を借りて来ることといたしましょう。この2連休に、なんとか読めればと思います。
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宮城谷昌光『沈黙の王』を読む

2007年01月26日 19時22分32秒 | -宮城谷昌光
表題作『沈黙の王』は、生まれつき言語に障害を持って生まれ、言葉の大切さを痛感していた商の王子・昭が数々の苦難を乗越え、自分を助け代弁してくれる協力者である傅説を得て即位し、高宗武丁となって初めて甲骨文字を生み出すまでを描きます。奴隷の境遇を脱して都に戻る途中で雪にあい、鳥が足跡を残すのを見て、森羅万象を文字にする着想を得ます。口から出る言葉を形に表すという文字の発明は、はたして個人の偉業なのかどうか、その真相はわかりません。けれども、淡々と語られる重厚な物語は、なかなかに感動的なものがあります。

『地中の火』、弓矢が実戦に用いられた物語。寒足(実際はさんずいに足)さん、惜しかった、もう少しだったね、と慰めるべきなのでしょうか。「それはだめだ」と後から言うのは簡単ですが、激動の渦中にあってそれを言うのは難しいことなのでしょう。

西周王朝崩壊に直面した鄭の君主父子二代それぞれに焦点を当てたのが『妖異記』と『豊穣の門』。『妖異記』では、周の幽王と彼の寵愛した褒ジ(女へんに以)を中心として周の滅亡までを描きます。『豊穣の門』は、鄭公友(ゆう)と、友の子掘突(くつとつ)のお話です。幽王に忠誠を尽くした鄭公友は王に殉じますが、鄭の国民が周の滅亡に巻き込まれないように手を尽くしておきます。その子の掘突は、即位した宜臼の信頼を得て太政大臣となり、鄭を再興します。

特に心に残るのが『鳳凰の冠』です。直木賞受賞作『夏姫春秋』に描かれた、小国鄭に生まれた絶世の美女夏姫。彼女は出会った男を滅ぼす妖艶な悪女と思われていますが、はたして本当にそうだったのか、というのが著者の立場です。ここでも、叔向が出会ったのは夏姫の娘だったのか、それとも夏姫本人だったのではないか、と最後まで気を持たせるところがうまい。叔向に嫁した季ケイ(神社の鳥居の記号におおざと)は夏姫の娘でしたが、彼女もはっきりとは言いません。父が不遇の時代、盗まれた羊への対応から賢夫人と世評は高いが、実は好き嫌いが激しく干渉好きでイヤミな老女に過ぎない生母の叔姫と、ただ一度出会った、鳳凰の冠を求めていった美女が、実は60歳を過ぎていたと思われる老女の夏姫だった、という苦い対比がなんともいえません。叔向が退職した日、兄の遺品の鳳凰の冠を持って待っていた、依然として若々しい優しい妻。なんだか、雪女の娘を娶った男のような気分でしょうね。
いずれにしろ、印象的な短編ばかりを集めた、けっこう読み応えのある本です。
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宮城谷昌光『奇貨居くべし』第5巻(天命篇)を読む

2006年06月11日 21時05分43秒 | -宮城谷昌光
先日、南東北地方も梅雨に入り、どんよりしたお天気です。今日は、サクランボの収穫もお休みで、一日読書です。宮城谷昌光氏の長編『奇貨居くべし』は、いよいよ第5巻(天命篇)になりました。

呂不韋の訴えにより、華陽夫人は太子に願い、公子異人は嗣子となり子楚と改名、呂不韋は子楚のうしろだてとなります。呂不韋を慕って死んだ小環の遺児・小梠が舞子として近づき、呂不韋の子を身ごもります。ところが、子楚が小梠を望み、妾ではなく正室として迎え、産む子は自分の子とする、と言います。呂不韋は同意しませんが、小梠は自ら子楚のもとに行きます。このあたり、なんだかなぁ、よく理解できません。
趙を支えていた藺相如が死去し、呂不韋は弔問に出向きますが、楚に回り黄歇もとに滞在して学問に励み、子楚のもとに帰ろうとしません。そんなところへ僞の呼出があり暗殺されかかりますが、かつて逃した奴隷に危急を救われます。首謀者は子楚を排斥しようとする勢力であり、秦と趙の雲行きが悪くなると子楚は身の危険を感じるようになり、妻子を置いてからくも脱出しますが、父のかわりに人質となった子の政は置き去りにした子楚と呂不韋をひそかにうらみます。
秦では応候范雎が引退し、陶候魏冉が没すると、陶は魏によって亡びますが、田焦ら農業技術者が多数秦に移住します。子楚の妻小梠と子の政を人質の立場から解放するための方策はうまく行きません。秦では昭襄王が没し、太子柱が孝文王として即位しますが、わずかな在位日数で急逝し、子楚は荘襄王として即位します。趙姫小梠と子の政が帰国しますが、王はなつかない政を嗣子とすることに難色を示します。しかし政治の不安定をきらう宰相呂不韋が王にやわらかに諌言し、政を太子とします。

ここからはやや抽象的になります。立憲政体を目指したという呂不韋の政治と蒙ゴウ将軍の軍事は穏やかで、秦の支配域は徐々に拡大します。ところが荘襄王もまた崩御し政が即位しますが、内心にうらみを持つ政は呂不韋を遠ざけ、暗い政治に逆戻りしてしまいます。



長い物語の終わりは割愛しておいたほうが良かろうと思いますが、充分に面白さを満喫することができました。一方、呂不韋という人物像をどうとらえればよいのか、私には今一つ不透明です。
(1)呂不韋はなぜ正妻を持たないのか。多くの女性との間に子をもうけながら、現代の目で見ると不自然だ。敵国に母子を置き去りにした父を政がうらむのは自然な気がする。
(2)公子異人に黄金の気を見た件について、異人が嗣子となり王となるのは事実だがその後あっけなく早逝してしまうところを見ると、どうも金メッキだったのではないか。君子を買ったおそるべき政商という見方もできるが、君子こければ政商もこける、という実例でもあるだろう。
(3)『呂氏春秋』は呂不韋の思想というよりも、当時の優れた思想や知識の百科全書的集大成であろう。呂不韋の評価は思想や知識の組織家なのではないか。
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宮城谷昌光『奇貨居くべし』第4巻(飛翔篇)を読む

2006年06月09日 20時42分51秒 | -宮城谷昌光
ようやくたどり着いた「飛翔篇」、タイトルどおり野鳥の飛翔の写真です。ワシ・タカだとよいのでしょうが、都合によりトンビです(^_^;)/

趙は藺相如と廉頗将軍の二人ががっちり手を組み、安定している。陶では農業生産力の向上に努力している。呂不韋は黄金の採掘のために魏冉から資金援助を受けることができた。父の元から鮮乙を譲り受け、衛の首都・濮陽で賈人(商人)として立つ。袿は秦王の嫡子である太子に愛され、呂不韋と鮮乙は衛の大賈である甘単の知己を得て濮陽での営業許可を受ける。
呂不韋は鮮芳と藺相如に会い、秦と争わないことで得た趙の安定を味わう。陶の黄金の採掘も順調とのことで、佗方も機嫌が良い。呂不韋は衛と陶を結びつけることで、趙との密かな同盟の道を探る。楚では、楚王の重臣となった黄歇が国を支えている。呂不韋はひたすら商売に専念する。

五年後、秦の太子が魏で逝去する。秦王の元で『青雲はるかに』の主人公・范雎が頭角を表し、陶候魏冉の落日の日が来る。宰相を罷免され、范雎が宰相となる。呂不韋もまた多くの財産を失うが、配下に助けられ、信用を失わずにすんだ。
呂不韋は、本拠を邯鄲に移し、趙で人質生活を送る秦の公子・異人に着目する。異人を趙の宰相に会わせるとともに、秦の太子の嫡子として立てるために、華陽夫人に会うが、華陽夫人とは、実はかつて陳で会った南芷であった。



かつて和氏の璧を争った敵である佗方に近付いた呂不韋の着眼は素晴らしいと思いましたが、陶候・魏冉に取り入り、政商として立つあたりは呂不韋びいきにはなれません。案の定、范雎により魏冉が失脚すると、岐路に立たされます。あっちでもこっちでも子どもを作るところも、ずいぶんなやつです。物語としては面白いのですが、魅力的な人物像と言えるかどうか、結論は最後の「天命篇」へ続く。
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宮城谷昌光『奇貨居くべし』第3巻(黄河篇)を読む

2006年06月04日 18時29分17秒 | -宮城谷昌光
どうも風邪を引いたらしく、昨日からくしゃみと鼻水が止まりません。今日は一日寝て、うつらうつらしながらおとなしく本を読んでいました。秦の統一の基礎を築いた宰相・呂不韋(りょふい)の物語『奇貨居くべし』、第3巻は数々の辛酸をなめ、賈人(商人)として立つ決意を固めるまでを描きます。

斉王の伯父・伯紲が運営する、貧窮者と孤児のための施設である慈光苑は、孟嘗君の死とともに斉の攻撃が必至となり、危機に陥ります。魏を頼み、慈光苑を守り抜くと息巻く者、早々に見切りをつけて退去する者、去就は様々ですが、恵まれない人々はどうなるのか、呂不韋は悩み迷います。斉と魏に囲まれ両者の攻撃を受けるのであれば、秦の陶侯の配下である佗方に救援を依頼するしかありません。
伯父を殺したという汚名を嫌う斉王は魏と密約を結び、慈光苑は救援の軍を装う魏によって破壊されます。呂不韋は有能な農業技術者である黄外ら数百人を伴い、佗方の配下に助けられて殺戮の寸前に辛くも脱出し、陶にたどりつきます。先に逃していた維らに看護され、ようやく健康を回復します。
佗方は、和氏の璧を守り抜き主君である魏冉を出し抜いた呂不韋を覚えており、その才能に興味を持ちます。呂不韋は黄外を補佐し秦の農業生産力を飛躍的に増大させることができる者として田焦を推挙し、はるばる迎えに行きますが、田焦は秦の捕虜として行方がわかりません。白起将軍の進路をたどり田焦をたずねる旅の途中で、盗賊の手から異母姉弟を救います。姉の袿は楚の王女でしたが本人はそのことを知らず、慈光苑の悲劇を例に呂不韋に戒められ、盗賊に凌辱された絶望から次第に回復していきます。捕虜の名簿の中で、栗の名を見出し、解放を依頼しますが、田焦は見付かりません。ようやく発見した田焦はまさに処刑の寸前で、救出してくれた呂不韋に感謝するとともに、その人間性に惹かれます。呂不韋は、賈人として立つことを決意します。人相見の名人・唐挙を通じ呂不韋の消息を知った鮮乙は、ようやく安心します。
陶に着いた田焦は、佗方にも黄外にも高く評価されます。袿は弟と共に佗方に預けられ、呂不韋のもとに鮮乙が到着、賈人として立つ決意を聞きます。鮮乙は、商いの拠点として小国・衛の首都濮陽を挙げ、川の水上交通を利用した計画などが描かれます。
陶邑で黄外が提出した灌漑工事の計画が許可されますが、それには条件がありました。水路を軍事用にも設計する必要があるというのです。天才的水利技術者の鄭国を迎えて、計画はスタートします。一方、袿は西という姓を与えられ、陶侯魏冉とともに秦に旅立ちます。大柄で健康な維は呂不韋の実質的な妻として愛されます。

第3巻は、おおむねこんな粗筋です。最後のところで、当時の中国の美人の基準が細腰のかよわくはかなげな女性にあったことが述べられ、呂不韋が美人の基準の点でも独自の価値観を持っていたとされています。このあたりも、作者である宮城谷昌光氏の人物造型が面白く感じられる点の一つです。

写真は寒河江川の流域で、偶然にも上部にトンビが飛んでいるのが写っています。
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宮城谷昌光『奇貨居くべし』第2巻(火雲篇)を読む

2006年05月30日 20時50分48秒 | -宮城谷昌光
秦の策謀から和氏の璧を守り抜いたものの、疲労のあまり病に倒れた呂不韋は、藺邑で僖福の献身的な看護を受けて生命をとりとめます。ここまでが前巻のお話。

ようやく健康を回復したものの、藺邑は秦軍に包囲され、呂不韋は奴隷として陶侯・魏ゼンが建設中の穣邑に送られる。そこで孫子に出会い、奴隷の生活の中で学問をすることになる。秦への復讐を誓う楚が攻め込み、奴隷たちは穣邑から出て輜重隊に加わることになるが、孫子は輜重隊が五日以内に奇襲を受けると予測する。楚兵の隊長が黄歇の配下であったことから、辛くも脱出することができた。

広大な楚の国を歩き通し、人相を見る名人の唐挙に出会うと、唐挙は呂不韋を位人臣を極めると予言する。また唐挙は楚の衰退を告げ、大商人・西忠に楚から重心を移動するよう示唆する。唐挙は多額の謝礼を運び、魏に接し孤児や不幸な人々を救済する慈光苑の伯紲に寄付する。そこで呂不韋は見知らぬ老人に出会い、招待を受けるが、その老人こそ最晩年の孟嘗君であった。そして、孟嘗君の死とともに、時代は大きく変化していく。

これが、火雲篇のあらすじです。奴隷となった呂不韋が同じく奴隷の身に落ちている孫子を師として学ぶ対話の場面が、実に緊張感を持って描かれています。古代ギリシアの哲学者との対話に似て、羨ましいほどです。
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宮城谷昌光『奇貨居くべし』春風篇を読む

2006年05月28日 17時29分35秒 | -宮城谷昌光
中公文庫で、宮城谷昌光『奇貨居くべし』春風篇を読みました。帯解説によれば、「秦の始皇帝の父とも言われ、一商人から宰相にまでのぼりつめ」るとともに『呂子春秋』を編んだ人ということだそうですが、この解説から受ける印象は不義密通とか政商とかいう生臭いもので、編纂した著作も自慢気な自伝のようにさえ受けとれます。
ところが、実際には全然違いました。『孟嘗君』の後日談であり『青雲はるかに』の裏面史でもある本作品は、堂々たる大河のような物語です。

韓の中堅の商家である呂家の次男である呂不韋(りょふい)は、生母不在のまま不遇に育ちます。父の命により鮮乙(せんいつ)とともに黄金を産出する山を調査する旅に出て、次第に成長していきます。偶然に暗殺現場に居合わせ、楚の国宝というべき和氏の璧(へき)という宝玉を手にします。楚は趙と結び、秦に対抗しようとしていたのでした。
邯鄲で鮮乙の妹である鮮芳(せんほう)は藺相如(りんしょうじょ)を思慕し、愛人となっています。楚の黄歇(こうけつ)は、和氏の璧を土産として趙君に運ぶ途中で、楚と趙が結ぶことを妨害する秦の宰相・魏ゼンの策略により、奪われたのでした。呂不韋は、和氏の璧を黄歇に返し、藺相如のもとに滞在して学問を始めます。
慎子曰く、天子を立てるは天下の為なり。天下を立てるは天子の為にあらず。
こうした思想を、古代中国の人々は持っていたのですね。

さて、秦王の使者が趙の邯鄲に来て、秦の十五の城をやるので和氏の璧をよこせといってきます。もちろん、ねらいはただ取りです。だが、強大な秦に対し、否とは言えない趙は、正義を立てるために陪臣である藺相如を秦に派遣します。藺相如は呂不韋を伴い秦におもむきます。藺相如が秦王にまみえる場面は、実に迫力がありスリリング。結果的に藺相如は無事使命を果たしますが、呂不韋は生死の境をさまよいます。これが春風篇の概要です。

平凡で不遇な若者が、旅をして次第に成長する場面は、一種なつかしさを感じさせます。物語の続きが待ち遠しい。今日は地域行事のため、午前中いっぱいつぶれてしまいました。明日は読めるでしょうか。
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宮城谷昌光『孟嘗君』第5巻を読む

2006年04月23日 15時07分14秒 | -宮城谷昌光
宮城谷昌光著『孟嘗君』第5巻をようやく読了しました。2004年の秋に初めて読んで以来、昨年同時期に再読、今回で三読。あらすじだけでなく、内容のほうもだいぶ楽しめるようになりました。



「海大魚」の章では、洛芭を忘れられない田文が、父田嬰の命令により西周姫を娶ることになる。気乗り薄で迎えた花嫁が、実は・・・というお話。希望は星の光のように小さく遠いものだが、月と違って満ち欠けはしない、という白圭の諭しは、無名の時期の長かった作者の感慨だろうか。
「諸国漫遊」の章では、田嬰が薛(せつ)の国主となり、「靖郭君」と呼ばれるようになるが、田文は嗣子としては扱われない。隣接する嘗の邑を与えられ、これを見事に治めて孟嘗君と呼ばれる。だが、孟嘗君の人気が高くなれば、反発も生じる。若干の臣下と食客を連れて、馬車で諸国を巡る旅に出る。
「魏相の席」の章では、楚と結ぶ鄒忌(すうき)が、宰相への復帰を狙い、毒の樹で作った琴で威王を殺す。宣王が即位し、田嬰が薛で喪に服す間に、鄒忌が再び宰相に任ぜられる。鄒忌は宋王に薛を進呈すると伝え、宋軍が薛邑を取り囲むが、貌弁により鄒忌の悪事と真実を伝えられた宣王は田嬰の薛邑を救援する。策謀が失敗した鄒忌は、宋により暗殺される。孟嘗君は魏の首都大梁に入り、宰相の犀首から後継者にと懇望される。
「間雲」の章は、落ち目の魏を孟嘗君が立て直す次第。王族出身者は王室への忠誠心が薄く、自己保全に心をくだくが国益には寄与しない、という指摘は厳しく鋭い。張丑の指摘どおり、秦が韓を攻める。張儀を秦の宰相にと推す孟嘗君の深謀に対し、秦の樗里子は魏を攻めるが、魏の宰相の孟嘗君は国力の充実を優先し「そちらがどうであろうと、こちらは誓いを守る所存」と相手にしない。魏の襄王は孟嘗君を頼りにする。
「斉の宰相」の章では、秦と楚の争いに対し、秦の同盟国として国力を回復した魏も参戦し、楚を破る。楚は斉をたきつけ、魏を攻めさせるが、これも一蹴する。しかし孟子をかくまったために再び宋王に攻められた薛を救援すべく、わずかに300人の配下と共に薛に戻る。この救援の一部始終と田忌将軍の帰国の場面はたいそうドラマティックだ。田嬰の死とともに田文が嗣子となり、薛邑の国主とともに斉の宰相となる。
「函谷関」の章では、時が移り斉も愚昧な王の代となる。秦の宰相にと請われた孟嘗君は、趙の武霊王の策略により危うく囚われの身となりかかるが、かろうじて脱出する。斉と魏と韓の三国は孟嘗君を師将として秦を攻め、これを破る。だが、斉王は薛公・孟嘗君の盛名を疎んじるようになる。「人を助ければ自分も助かる」という白圭の死は、黄河の治水土木事業とともに残ることだろう。



この巻は、主たる悪役であった鄒忌があっさりと死んでしまうので、以後は各国の王の交代と争いを描くことに主眼が置かれ、物語のドラマ性は低下する。国の盛衰に予備知識があればもう少し楽しめるのかもしれないが、なんだか駆け足で歴史の説明をされているような気がしてしまう。なかなか難しいものだ。

本編に出てきた中山国の滅亡と将軍・楽毅について、著者は『楽毅』という物語を別に書いている。こちらは一連の軍事の物語だが、孟嘗君の国の最後が描かれ、ちょっと悲しい。
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