電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

岡田暁生『音楽の聴き方』を読む

2010年02月21日 06時24分04秒 | クラシック音楽
岡田暁生著『音楽の聴き方』(中公新書)を、ようやく読み終えました。前半は比較的すんなりと読めましたが、後半はなかなか難しい。体裁はコンパクトな本ですが、あちこちで議論になりやすい性格を持った、けっこうハードな本のように思います。

本書の構成は次のようになっています。

第1章 音楽と共鳴するとき~内なる「図書館」を作る
第2章 音楽を語る言葉を探す~神学修辞から「わざ言語」へ
第3章 音楽を読む~言語としての音楽
第4章 音楽はポータブルか?~複文化の中で音楽を聴く
第5章 アマチュアの権利~してみなければわからない

第1章、内なる図書館の比喩は、なるほどと説得的。
第2章、音楽を語る言葉はある。それは、オーケストラのリハーサルを見れば明らか。指揮者は言葉でイメージを伝え、奏者の身体感覚を喚起します。「言葉の無力について雄弁に言葉で言い立てる」(p.43)ロマン派的音楽批評の自家撞着の指摘もその通りだと思います。
第3章、ハイドンやモーツァルトの交響曲や弦楽四重奏曲をコース料理にたとえ、第1楽章で恭しく宮廷に通され(序奏)、サロンで活発な議論が交わされる(主部)。第2楽章はティータイムで、第3楽章は舞踏会のメヌエット、第4楽章で王宮の祝典の喜びが爆発するーといった型、約束事がある、という説明は面白いものです。ベートーヴェン以降、こうした約束事が市民階級の成長とホールでの演奏会形式に合わせて改変され、「闇から光へ」「苦悩を通して歓喜へ」のパターンが定着し、さらにその「盛り上がり型」のパターンを避ける瞑想的終結が工夫されるようになる、などの説明も興味深いものです。
第4章、「音楽はポータブルか」において、(1)楽譜(五線譜)、(2)音楽院や楽派の形成による伝承、(3)レコード録音と再生の技術開発、という三つの区分を示しているのも、たいへん説得的です。

でも、アドルノのトスカニーニ批判や、ポリーニのショパン「エチュード集」についての文章(第4章)など、なんだかやけに難しい。さらにパウル・ベッカーに続き紹介される、ハインリッヒ・ベッセラーの「聴く音楽」と「する音楽」の二分法などは、素人音楽愛好家にすぎない当方などにとって、排除の論理のテーゼにきこえてしまいます(^o^)/
「聴く」から「する」へ、などという節が全体の末尾を飾る構成は、もう平均寿命を八割方通過しつつある者には、絶望的な結論のように思えて、思わず「え~っ!」と悲鳴をあげたくなります(^o^)/
クラシック音楽を空気のように呼吸してほぼ半世紀、正直言って、いまさら「する音楽」へ向かえと言われてもな~、という感じです(^o^)/

当方は、どうも発想の根本に、真理はわかってみると単純で明快なものである、というふうな思い込みがあるようで、「遺伝情報はA,T,C,Gの4種の塩基の配列によって伝えられている」という類のものだと、実にすとんと腑に落ちる感覚があります。ところが、読んだこともない難しい本の著者Aはこう言った、Bはこう言った、それは実はこうなのだ、というような議論は、正直言って文章の筋道をたどるのが精一杯で、ストンと腑に落ちることはありません。音楽や芸術に関するハイブロウな論議をコンパクトに圧縮した本書は、あまり未来がなくなった理系の石頭にはいささか手に余るものがあるようです。
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