たいていの場合、本を読むのは楽しく興味深く、またおもしろいものですが、時には苦痛な場合があります。例えばディケンズの『大いなる遺産』を読んでいたとき。あの時は、上下二巻のうち上巻はウンウン苦しんで、読むのが苦痛なほどでしたが(*1)、下巻に入ると一気呵成(*2)、最後のカタルシスに至るまで、思わず引き込まれます。たしか、寒い季節だった気がする。
ただいま読んでいるのが、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』。思春期の子どもたちの生活のところどころに、保護官だとか回復室だとか提供だとかいう語が意味ありげに出てきます。うーむ、臓器提供のために育てられている子供たちの話か。重そうだな。なんとなく読むのが苦痛です。でも、少しずつ読み進めているのは、『大いなる遺産』のときと同じです。たぶん、その後には何らかの、光明というかカタルシスというか、息苦しさを緩和させるものが待っているのではなかろうか? さてどうだろう。
(*1):ディケンズ『大いなる遺産(上)』を読む〜「電網郊外散歩道」2006年1月
(*2):ディケンズ『大いなる遺産(下)』を読む〜「電網郊外散歩道」2006年2月
ただいま読んでいるのが、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』。思春期の子どもたちの生活のところどころに、保護官だとか回復室だとか提供だとかいう語が意味ありげに出てきます。うーむ、臓器提供のために育てられている子供たちの話か。重そうだな。なんとなく読むのが苦痛です。でも、少しずつ読み進めているのは、『大いなる遺産』のときと同じです。たぶん、その後には何らかの、光明というかカタルシスというか、息苦しさを緩和させるものが待っているのではなかろうか? さてどうだろう。
(*1):ディケンズ『大いなる遺産(上)』を読む〜「電網郊外散歩道」2006年1月
(*2):ディケンズ『大いなる遺産(下)』を読む〜「電網郊外散歩道」2006年2月