
(いつも仲良し番の鳩さんに憧れます!仲良く海辺や川辺を散歩しキャンプすることが理想!)
簡単にA,B,C,D,Fと成績が付けられそうだけれど、そうではない。FINALのテストを調べ、アチーブメントテストの結果を確認し、提出課題を確認し、Self-Evaluationを確認し、最近は出席までパソコン入力をしないといけない。まとめてやると、それも時間がかかる。100人の学生のレポートだとそれを読むのに二日かかるに違いない。
学生が書いた英文レポートも読むのに時間がかかる。成績を納得してつけてしまったら、5つの評価に振り分ける作業が単純に見えて、そうでもないのだと思える。以前国際学会に8月頭に参加するために急いで成績をつけたことがあったが、後でもっと丁寧にREVIEWすべきだったと反省した。評価は厳しい先生と甘い先生に極端に別れるだろうか?可能な限り、シラバスの最初の約束の評価パーセンテージにそって数値化するが、以前、学生の自己評価と希望を受け入れ全員に優を与えた教師がいて話題になったりした。学生が自らそれだけ頑張ったと自己評価し、教師側も納得したということなのだろう。評価に関して学生からクレームがきても当局からクレームがきたことはない。
先日授業評価に関して、30代の社長・学生が、学生が意図的にある教師の授業中の行為や発言に、アカハラ・セクハラ的だのコメントがなされていて、困ったことがあったと、某授業の教官が話していたと、いう。どうして教わるべき学生が授業や教師を評価する必要があるのでしょうか、と彼は問うた。
学生による授業評価が導入されて久しいがアメリカの大学のシステムを導入したのだといえようが、アメリカではかなり教授陣がアンケートに気をつかっている様子が見えた。アンケートの結果でテニュアの椅子が得られるか、昇進するかどうかも含め、査定されているのだと理解した。人数の少ない大学院の授業でもそうだった。日本の大学ではどうなのだろう?アンケート結果で首になった教授が私立大学ではいたのも事実だ。身近な大学でも起こった。私学は特に配慮している様子がうかがわれる。それだけ大学経営に必死でたいへんな状況があるのだろう。
学生の問いだが、「つまり教育もマーケット理論で成り立っているのですよ」と咄嗟に答えていた。学生にどんないい教育サービスを施すか、そのサービスの質とレヴェルが問われている時代なのである。商品という名の知的産業である。それがインターネットの導入で、現場の授業よりネットで公開し、すでに作成されたテキストが提供される『放送大学』などの質が意外といいという事実もありえる。ゼミ形式の授業も提供されている。
ただアメリカの教育システムは厳しいと評判でかつ株式会社のような組織にも思えたのだが、教育政策・システム論など専門にしていないからよくわからないが、効率性が追求されているように見えた。入るのは簡単で卒業できない仕組みは、日本ではマネできない。中途半端なのである。1年の終わりに例えば四分の一の学生が単位が取れなくて辞めざるをえないこと、は日本ではありえない。単位をとって卒業できる仕組みが作られている。安易というより、考え方がまた異なるのだろう。
ハワイ大で卒論を書いたハワイ4世のこちらの大学での修士論文も英文で書かれているが彼の論文のフォーマット、論稿のフレイムはハワイ大卒論のフレイムでなかなかいいと思った。日本の大学のフォーマットよりセンスがいい効率的な分析と統合性がある。その辺の違いは淘汰されていくのだろう。何しろ世界のアカデミーは英語の世界だからー。英文システム(欧米システム)が主流である。そのフォーマットに沿わないといけない。表記システムはいろいろあるが、シカゴ型とか。
博論でも1・1・3とか2・2・3とかの数字が並んでいるのを見ると「ぞっと」するが、簡潔に要領よくまとめるシステムの機械的な形式にも嫌気はさす。物語のような読ませる博論がいいね。
さてはやく成績を出して本題の課題に戻らなければ!