(沖縄タイムス12月13日火、芸能欄から転載)
文化庁の調査員、沖縄担当の吉田さんは、その辺をもっと検証してほしい。島元論評はきわめて妥当な視点である。玉城盛重門下の方々だけが国指定無形文化財琉球舞踊の保持者というのは「理」にかなっていない。県の担当部局は、もっと指導すべきだ。このままでは偏った沖縄の伝統芸能の歴史になってしまう。
近世琉球から近代へ、宮廷芸能から沖縄芝居の芝居小屋が継承してきた琉球舞踊の歴史と、金武流の流れがあり、また近代における新垣松含流や渡嘉敷流、比嘉清子流、山田貞子流など、がある。渡嘉敷流はかなりインパクトがあったはずで、新垣松含流も現在に引き継がれている。戦後、型の統一が豊平良顕さんなどによって矯正【統一)された芸能の型が現代である。近世、特に近代の手は手記や写真、「型のイラスト」などが残されており、かなり現在との違いが明らかになっている。
農村地域の村踊りの手もまた近世から近代への舞踊の型の違いを伝えている。そうした中で盛重門下の方々が独占する沖縄伝統舞踊の継承はきわめて危険な兆候であるに違いない。
島元さんが提起した問題を大城學、池宮正治、當間一郎、宜保榮治郎、最近の研究者の波照間さん(明大)などを招聘し大論争をしたらいいと考える。辻の芸能を検証してきた視点からの提示などはできたらと考える。
<重要無形文化財琉球舞踊保持者>2009年に指定!
国の重要無形文化財に指定されることになった「琉球舞踊」の保持者は次の通り。(敬称略)
【舞踊】
大城政子(80)=那覇市、宮城幸子(75)=那覇市、島袋光晴(74)=豊見城市、谷田(金城)嘉子(73)=那覇市、志田房子(フサ子)(72)=東京都練馬区、宮城能鳳(徳村正吉)(70)=与那原町、親泊(嶋袋)久玄(70)=名護市、眞境名(比嘉)直子(69)=沖縄市、玉城(山田)節子(68)=那覇市、金城(梶原)美枝子(68)=愛知県名古屋市、玉城(大田)秀子(67)=那覇市、喜納幸子(67)那覇市、又吉靜枝(65)=那覇市、佐藤(山内)太圭子(65)=那覇市
【歌三線】
島袋正雄(86)=沖縄市、玉城政文(80)=宜野湾市、松田健八(80)=沖縄市、大城助吉(78)=那覇市、新垣万善(萬善)(78)=八重瀬町、照喜名朝一(77)=那覇市、城間徳太郎(75)=那覇市、平良盛勇(71)=南風原町、金城武信(69)=糸満市、知花清秀(69)=那覇市、西江喜春(68)=那覇市、玉城正治(66)=那覇市、喜瀬愼仁(66)=沖縄市
【箏】
宮城正子(88)=那覇市、宮城文(81)=宜野湾市、又吉清子(78)=那覇市、高良時江(69)=那覇市、東江朝子(66)=南風原町、上地尚子(65)=浦添市、上原綾子(62)=那覇市
【胡弓】
屋嘉比清(84)=八重瀬町
【笛】
嘉数世勲(65)=那覇市、大湾清之(62)=那覇市
【太鼓】
喜舎場盛勝(77)=那覇市、宇座嘉憲(60)=那覇市
※注:城間徳太郎の徳は、徳の「心」の上に「一」
※注:喜瀬愼仁の「瀬」は、「瀬」の頁が「刀」、その下に「貝」
※注:高良時江の「高」は旧字体
<用語>琉球舞踊
琉球王国時代に冊封使や薩摩の番所奉行歓待のために創作された古典舞踊と、明治以降に創作された雑踊りからなる沖縄の伝統舞踊。このうち、王国時代までの古典舞踊は1972年に「沖縄伝統舞踊」として県が無形文化財に指定した。
歴史を歪めてはだめですよね。芸能の修正主義はよくありません。多様性の中の独自性があるわけで、一方に偏る演技者は危険ですね。ハイブリッドの中の琉球の独自性です。
**************************以下、【備忘録】
沖芸連 OKIGEIREN
**********【備忘録】豊平さんたちの功罪がまたあるのかもしれませんね。型のまとめの良し悪しがあったのも事実かもしれませんね。コンクールのために洗練されていったのかもしれないのですが、近代(戦前)の芸能の足跡が消されましたね。今かろうじて残っている状態でしょうか?
豊平良顕
生年明治37(1904)年11月13日
没年平成2(1990)年1月27日
出生地沖縄県那覇市首里
学歴〔年〕沖縄一中中退
主な受賞名〔年〕菊池寛賞(第20回)〔昭和47年〕
経歴大正13年沖縄朝日新聞入社、大阪朝日新聞那覇支局長を経て戦時下、沖縄新報の編集局長を務め、首里の壕内で新聞を出し続けた。昭和23年「沖縄タイムス」の創刊に参加、常務、副社長、会長、相談役を務めた。その間、史跡保存会を結成、散逸した文化財の収集に努め、美術展や芸術祭を開催して荒れ果てた人心の再生に尽くした。その努力により47年第20回菊池寛賞を受賞した。沖縄文化協会、沖縄民芸協会の設立者でもあり、県史編集審議会会長として県史の編集を進め、沖縄文化財保護審議会会長も兼ねた。
そして21世紀の現在です。玉城流が大きな幹になって枝葉の流派があるのでしょうか。玉城盛重さんの力が戦前大きかったにしても、折口信夫が評価した渡嘉敷守良、そして玉城盛義同様、辻の芸妓に舞踊を教えていた新垣松含もいます。弟子を多く持っていた松含さんだったという記録もあるのですね。特に盛義さんは多くの辻の芸妓に舞踊を教えていたので、座敷芸としての舞踊の魅力をよく知っていた方なのでしょう。
沖縄芝居役者の独自の舞踊の継承の流れもありますね。また全く芝居と関係なく王府時代の踊りの手を継承してきた金武流もあるのですね。多様性が近代では型の統一がなくなされてきたのですね。
問題は戦後でしょうね。どう統一されどう変容してきたかですね。
盛重門下の手の振りや動きと渡嘉敷や新垣、金武、その他の手や身体全体の動作とどう異なるのでしょうか?その辺の差異(異なる型)を明らかにしないと、主流の組織の力学で国の保持者が決まっていくのですね。身内贔屓の継承ということになりますね。
客観的に「理」にそって、優れた国の保持者が選択されることを期待しています。
島元さんが寄稿文に書き、切望した
「保存会には、疑念を払拭する公正しで透明性のある選考」は、実現したのだろうか。
私は、残念ながら・・・と思う。
しかし、この琉球舞踊界の問題を一般に知らしめた意義は大きい。
なぜなら、私もこの寄稿文でこの問題を知った一人だから。それまで何の関心もなかった琉球舞踊が気になり、素人なりにあれこれ調べ、国立劇場にも見に行きました。
今は、こんな素晴らしい文化をなくしてはいけないなと思っています。
芸能関係者以外のそういう人が増えたことの意味は大きいと思います。
なぜなら、数年後にはまた次の認定があるんですよね?
誰が立派な芸能家なのか、誰がきちんとしたことを書く有識者なのか、見てくれの権威に惑わされないように、しっかり注目したいきたいと思います。
間違っていることを間違っていると言える勇気。
今世界(日本か?) に欠けているのはこれ。光が射したように感じました。
今改めて読み返してみると、あの頃は島元さんの正義感というものを一番感じてましたけど、今はそんな単純なものではないなと言う気がしてきました。
静かだが心の底からの怒り。
その怒りの根底に、芸能そして芸能を支えてきた人たちへの深い尊敬を感じます。そしてそれを踏みにじる者への怒り。
以前に「芸能を支えてきた人たちから受け取ったバトンを次代に渡す「役割」を果たす保持者は、沖縄の芸能の未来を照らす光である」(琉球新報平成28年4月13日 「落穂」)と保持者への最大級の賛辞を書いていた島元さん。
だから
寄稿文の「保持者として不見識ではないか」という言葉は、強烈な言葉ではあるけれど、それまで保持者を信頼し、陰日なたなく支えてきた島元さんにしか言えない言葉だと思います。
かつては、琉球舞踊保存会による不透明な選考疑惑を追求していた沖縄タイムス、琉球新報の両新聞社も、一転して祝賀ムードである。
何がめでたいのだろうか?
島元先生が警鐘を鳴らした「(7つある琉球舞踊の)系統が一つだけになり、他の系統が衰退すると、琉球舞踊という芸能の多様さ、豊かさは失われれる。琉球舞踊は滅びるのではないか」という懸念に近づいたのに。
沖縄の舞踊は、県の文化財指定の頃は、七系統全てから保持者が人手されてきた。それが国指定になった途端に、玉城盛重系一つになった。
県指定から国指定になる中で、文化財指定の意義は大幅に後退した。盛重系統の中でさえ先達の技を守ってきた実演家が排除されている。
琉球舞踊の衰退が始まった。
「滅亡」の始まりだ。
でも、島元さんの投書がなければ、闇の存在に気づかなかった。
誰か勇気を持って光をあてる人がいないと闇の存在すら分からない。
沖縄芸能好きとしては、ショックだった。
でも、沖縄の芸能がもっともっと素晴らしくなるのを邪魔しているのが、何か分かって良かった。
大好きな沖縄の芸能を守るために、1650何が必要か考えるきっかけになった。
島元さん。本当にありがとう。
「保存会には、疑念を払拭する公正で透明性のある選考を切望する」と。
実際にはどうだったか?
観客を一切入れないで、保持者以外の関係者をシャットアウトして実技審査 !
保存会のこれまでの研修成果発表会は一般観客にも公開されていた。
実技審査は、研修の成果を披露するものではないからこれでいい!と言うことなら、保存会には「これ以上の透明性、公平性はない」(琉球新報 平成28年12月21日)と言うべきではない。