リンクしている辺見庸さんのブログを訪れてみると、1★9★3★7のことが細かく記されていてびっくりです!
私は 1975 年に生まれた。従って南京大虐殺も太平洋戦争も経験していない。私の父親も幼い頃に「戦時」を経験しているという程度なので、あの当時がどういう時代だったのか生々しく語る人は居なくなってしまった。これから時間が流れるにつれて、もう誰もあの大虐殺/戦争のことを間接的にしか語れなくなる日が来るのかもしれない。そういう状況に忍び寄るように安保法案(辺見氏は「戦争法案」と書いているが)が可決され、日本は後戻りの出来ない状況へと向かいつつあるように感じられる。まさに今こそ、何処まで正気を保てるかが問われるところではないだろうか……いやそもそも「正気」とはなんなのだろうか? そう問うてみると、答えが決して単純ではないことに気づかされる。
日本が侵略戦争を挑み、中国に上陸して兵士や民間人問わず虐殺して行ったことは疑いようのない事実である。そうでもしなければこちらが殺されていたのだから……という言い訳はあり得るだろう。だがそれだけでは到底説明出来ない蛮行が行われていることが記録として残っている。軍隊内では格が上の人間の指令は天皇の指令と直結するものとして(それだけの強度を備えたものとして)扱われ、規律に背いた人間はもちろんだが、場合によっては気分次第でビンタを行うといった暴力が蔓延していた。そして彼らは中国で、自分たちに直接危害を加える可能性が極端に低い、罪のない民間人を嬲り殺しにして行ったのである。その様子が辺見庸『1★9★3★7』には記されている。
非常に複雑な構成で成り立っている本書を何処から解説していけば良いのか私自身分かりかねる。繊細に扱わなければならない危険な書物なのだけれど、中心に据えられるのは辺見庸氏が自身が子どもだった頃の父親と過ごしていた思い出である。中国に派遣されており、恐らくは中国人を敵国人として殺戮したかあるいは殴打したかしただろう父親の思い出……辺見庸氏はそんな父親に、貴方は敵国人を殺したのかと問えなかったことを悔いる。臨終の間際になっても、そんな残酷な問いをズケズケと放つような真似は出来なかったのである。辺見氏は 1944 年生まれなのでもちろん 1937 年のことなんて分からない。だがしかし、愚直に問われる。知らない/知らなかったで済むような問題なのだろうか、と。
そのような惨劇を知らずに済ませて来たこと、それ自体が非人道的なものであるとしたらどうなるだろう。具体的に言えば、私なら私もまた中国の側から「戦争責任」というものを問われるべき立場に立つ時が来るだろう。その時、それは先祖がやったことなので自分には「戦争責任」はないと言い切れるだろうか? あるいは。プリーモ・レーヴィのこのような言葉が引かれる。「記憶は無記憶になりたいと望み、それは成功する」。戦争の体験の記憶は人畜無害なものとして処理され、そこでどれだけおぞましい物事が起こったのかを検証されることもないままに干からびて朽ちて行くのではないか。その時は既にもう新しい戦争が始まっているかもしれないではないか。
武田泰淳や堀田善衛といった作家や丸山眞男もしくは吉本隆明、藤田省三といった思想家の言葉を引きながら、そのような記憶が無化される(それは私がこれを書き貴方がこれを読んでいる今まさにその時間にリアルタイムで起こっている)メカニズムを分析して行く。そしてそれは日本(辺見氏は「ニッポン」と記すが)という国で天皇制と絡みついて、そこに日本人、日本という風土で生まれ育った人間の性とも関わり合ったものとして分析されて行く。記述の作法が上述したように特殊なので、本書はその意味で私小説的なものと国家論を無理矢理接合させたキメラのような書物として成り立っている。まさに「戦後思想史上、最大の問題作!」である。
本書では、武田泰淳の「汝の母よ!」を引いて次のように考察が進められる。母と子を見つけた日本軍は、命乞いをする親子に対して母子相姦をするように強いる。そして彼らが屈辱的な思いでそれを行うと、結局のところは惨殺してしまうのである。「ああ、すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」と母は嘆く。単純な反戦平和のロジックでは解けない問題が提示されている。「すべて」はなにも「敵」が居ること、「戦争」があることに由来するのではない。そうした非常事態において理性のタガが外れ、嬲り殺しも厭わなくなるのもまた人間なのである、という冷徹な事実、それを見据えることから始めなければならない。人間の内側にあり得るそうした残虐性を直視すること……辺見氏はそう迫っているように見える。
もしも私が 1937 年に中国に居て、武器の訓練のために、あるいは略奪や強姦のために上官から相手を殺せと命じられたら私は相手を殺しただろうか? 問題はそんな非常に単純な次元に辿り着く。私はもしかしたら、喜々として敵国人を惨殺する側に回っていたかもしれない。人間は幾らでも非人間的になれる……本書の堀田善衛『時間』や武田泰淳の小説の描写を読んで、久々に気分が悪くなってしまった。そんな非人間的な振る舞いの果てに屍者の山が積み重なった「虐殺」は生まれたのだ、と。屍者をひとりずつ丁寧に弔うことなど出来ないから川に流し込む下りは読んでいて吐き気さえ感じた。メンタルがタフな時にでなければ、読めない本だろう。
日本は敗戦によってなにが変わったのか? 辺見氏なら「なにも変わっていない」と語るだろう。国民は自分が加害者であったという罪の意識を捨ててファシズムに奉仕した被害者に成り下がり、その一方で戦争の紛れもない責任者である天皇を土下座させようとする怒りを露わにすることもなかった。戦争はなんとなく(誰かはっきりしない人間によって)始まり、なんとなく終わった。壊滅的な打撃を受けても、日本人固有のファシズムとの親和性は変わらないままだ。辺見氏はそう指摘する。そしてそれはまさにこの本が刊行された 2015 年の風景と繋がって来る。ファシズムに対抗出来るだけの理性/正気を鍛え上げること、「個」として流されずに立ち止まること。その重要さを知るという意味で、やはり辺見氏の言葉は今こそ必要なもののように映る。個人的には今年ダントツで一位の一冊だ。
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原罪の二字が重い!存在そのもののもつ罪が襲ってくるようだ。生存していることが罪だと感じさせる人類史である。人を殺さない。殺されない。殺させない、と誓うことが大きな歯車の中で無化されていく。そうならないための社会のあり方が問われているはずなのだが、この世界の大きな潮流のきな臭さが嫌でも漂っている。