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新作組踊大賞「鶴亀の縁ー扇のえにし」は、物語や演出の新奇さと共に、脚本と演出に課題も~?!

2023-01-29 20:37:55 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
少し小雨が降って寒い日だ。国立劇場おきなわの駐車場は満杯だった。久しぶりの新作組踊である。4人がエントリーした作品の中の大賞である。創作琉球舞踊もそうだが、応募作品が少ないという事はそれだけ新しい創作は、思いの他易しくはないという事を自ずと示している。創作にはそれなりの熟成した感性のようなものが問われるのだろう。組踊の詞章の表現にも時間がかかることが推測できる。ゆえに組踊に詳しく、よく理解した知性がなければ手が出せないということになる。

ただ翻訳といっしょで、物語をこなれた日本語で創作し、それを琉球古語に翻訳する事もありえる。二重三重の工夫が必要になる。脚本にト書きや音曲・舞踊も指摘しないといけない。頭の中で舞台をイメージして組み立てる必要がありそうだ。どのように創作したか、作者に聞きたい。

あらすじは、薩摩での5年間の勤めを終えて琉球への帰国途上で残波で大波で沈没し他界した崎山親雲上が冒頭に登場し、名乗りをあげる。
船子の「船路漕ぎ渡て美御使いしゃべら」の待遇表現は美がつく。
赤子の亀千代のことが念頭にある。下り口説で旅立ちの様子や渡航の経緯を地謡が演唱する間親雲上は踊っている。そして残波岬で大波で船は沈没する。一瞬舞台は暗転。何もないスペースになる。

実はこの【第一場】は序章である。本来なら第二場から物語は始まる。その点、この新作組踊は古典組踊の時計回りの物語の推移を崩している。「伊江島ハンドー小」の冒頭の夢の場面のような序章で始まるのだ。本来なくてもいい場面でもある。

【第二場】の亀千代の出羽(ンジファ) が本来の組踊のはじまりにふさわしい。鈴木耕太はあえて第一場に亀千代にとって死去して今はなき父親の身の上(いきさつ)を登場させる。なぜ?下り口説にのせて、山川港から琉球に戻る場面を表出したかったのだろうか。船事故は、琉球王府時代、何度もありえた海難事故だったと想像できる。その悲劇が影を及ぼす生き様があったことも事実に違いない。

物語の主人公は、舞台に登場するや名乗りをあげて自らの素性を語り、行為の因果関係を明らかにする。物語のはじまりだ。まさに現在形の中で亀千代は父母を失い父親の友人立津親雲上の慈悲で生きながらえ、士としての修養を積んできたことを語るが、彼の目的は「江戸上り」で踊りのお役目を勤めることであり、それは亡き父親の悲願でもあった。芸能に優れた父親の思いを自ら果たし、父母の恩に報い、お国にご奉仕することが彼の目的である。

その目的を叶えるため、まさに「江戸上りのお役目を決める試験」を受けるためにお城への途上である。金武節にのせて歩く亀千代にしかし邪魔がはいる。躾けすらに=いじめてやろう、の友人たちが2人して、彼の思いをくじく。彼らは「二親を失っているゆえに、お前は百姓だ」と侮蔑する。そのいじめっ子に対しても亀千代は自らの目的を語る「亡き父親の思いを果たそうと江戸上りの役を務めようと日々手墨学問、能羽三線に打ち込んできたのだ」と。彼の目的が繰り返される。

行く手を拒まれている内にお城の門が締まる鐘の音が響く。膝から崩れる。
東江節の「あけやう、如何しゅよら」は亀千代の絶望を誇張する。子持ち節が彼の落胆した心境を表出する間、帰路につく。「目元暗々となるが心気」である。

しかし【第三場】の親雲上手事による育ての親立津親雲上の登場は絶望から光への転換に他ならない。ここは物語が大きく動く場面になっている。物語の山になる。亀千代が試験に姿が見えないことを不審に思い、江戸立ちの担当者羽地按司の自宅へ連れ立つ。緊急な願いが聞き届けられたのは立津親雲上の捨て身の嘆願ゆでもあった。亀千代の踊りを見せて、その技芸の優れた様を披露する。父親の崎山親雲上のことはよく知られていた。按司は「薩摩上国でお勤めの際には薩摩守から幾度となく芸能のご所望があったと聞いておる」と優しい声をかける。按司の前で、立津が演唱し、亀千代は「特牛船」で踊る。「常磐なる松の かはることないさめ いつも春来れば 色どまさる」

地謡の立津の歌三線で踊る亀千代。地謡の上原崇弘の歌声が必ずしも魅力的に聞こえてきたわけではなかった。

予想通り、立津親雲上共々、亀千代は崎山子を名乗り、江戸立ちの陣営に加わることになった。
そこで立雲節である。「かにある百すでや 夢やちやぅも見だぬ 共に御腰立 するが嬉しや」

【第四場】は薩摩へ向けた船出、音曲「上り口説」にのせて船は旅立つ。鹿児島の山川港に着く間、立津と亀千代は演唱に合わせて踊る。

薩摩役人の唱えは七五調で、抑揚が異なる。演出はその辺はかなり考案したのだろう。「磯御屋敷にて上様が」は上様が、の部分に強い抑揚をつけた唱えである。陸地に上がって、山川の「琉球人傘踊り唄」で独特の足使いで道行をする。

琴手事で薩摩藩主(薩摩守)が登場する。玉城 匠の扮装は薩摩藩主とはいえ、かなり質素だ。独得な抑揚は威厳がある。

薩摩守は名乗り、自らの屋敷へ招いた目的を語る。羽地按司からの書状で崎山の舞を再び面前で見ることが叶う喜びがあったのだ。崎山子に踊りを所望する。

「ああたおうと 美拝どややべいる 扇舞一節。美御目掛けやびら」と崎山子は「はべら節」で踊る。薩摩守は「見紛うほどの懐かしさ」と述べて褒美を授ける。その褒美に隠された約束事が秘められていた。実は薩摩守は10年前に舞扇子を褒美として崎山親雲上に手渡そうとした時、親雲上はそれを差し戻し、又も巡りて御前にて舞をせし折り、これを賜らんと語ったのだった。その時、扇の柄の鶴亀の亀は我が子の名前ゆえと、赤子の時にあっただけの我が子に思いを抱いて泣いたのだった。

それを聞いて、立津は泣き、崎山子は扇を父と思い、いつまでもご奉公、お勤めをすると誓う。そして
「まことあの世界のこの世ごとあらば 互に手合わしやり打ち晴れて踊りましょう」と亡き父に呼びかける。

立津の地謡で鶴亀節を踊る。何と崎山子が踊り始めると、崎山親雲上が崎山子と重なるように白衣装で踊る。舞台に登場するわけではなく、紗幕の後ろで踊る。それが幻想的でいい雰囲気をだした。実際に舞台の上で踊っても違和感はなかったに違いない。

まあ以上が物語の場面ごとの展開である。後半ちょっとうつらうつらしていた。歌三線、踊りと盛りだくさんで、さらに独特な唱えの薩摩役人や薩摩藩主の登場もあり、新奇さと親子の絆、愛情、また琉球士の芸能に見せられた薩摩藩主の情け深さ、舞扇の所以の物語も含め、叙情性の深い新作組踊だった。

昨今組踊実演家の唱えが気になるのだが、一番聴き応えがあったのは崎山親雲上の宇座仁一であり、宇地原親方の石川直也だ。薩摩役人の唱えは奇異ではあったが、明快な抑揚で力強さがあった。

主役の亀千代の宮城茂雄の唱えにもっとまろやかさがあればと思う。例えば佐辺良和の唱えには伸びがある。和吟から強吟まで味わい深い唱えができる立役である。立津の上原もいいのだが、どことなく硬さが感じられる。
童一と童ニはもっといじめの声音や動作が見たかった。たかが唱えではない。耳ざわりのいい唱えがいいに違いない。
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冊封使に見せる古典組踊に薩摩守の登場なんて全くありえなかった。
近代以降の時代の変遷の中でこの境界を超えた新作組踊も『挑戦』という意味で十分楽しませてくれる。

最初の序章の部分があった方がいいのか、なくても物語の筋は十分想像できると考えるのだが~。あるいは亡霊になった崎山親雲上を亀千代が絶望的な淵に沈んでいる時登場させるとか、の構成も可能かもしれない。

最初赤子の時に父が遭難し、母親も乱心して他界してしまって天蓋孤独の少年の暗さが胸を詰まらせた。しかし、崎山親雲上の友人、立津親雲上の情けで士として立派に本分を果たし、親の夢も叶えんと頑張る少年の姿は微笑ましく、謙虚だ。芸をたしなみ、お国のためにと奮起する芸達者な士族層の志の高さがうかがえる。(実際はどうだったのか?)

一方で薩摩に隷属する琉球だった。芸が古来から御上に所望され献上されるものであるという事実がある。薩摩藩主に愛でられた崎山親雲上の芸が、琉球王府の外交手段としても重要な位置を占めていたことは推測できる。薩摩藩主の芸能への憧憬と愛が政治的位相を超えた美や慈愛の象徴を暗示すると見ることも可能だろし、たしかに異文化交流の中で培われたものが多々あるのも事実だろう。複眼的に見ると、そこに時勢を超えるものがやどっていた。芸能が、その美が万人の心を潤すものだということは確かだと言えよう。

祝言能的要素は鶴亀の柄の扇の中に秘められているようだ。台詞の待遇表現はこれからもっと追及されるものなのだろう。組踊の待遇表現について西岡さんが論文を書いていただろうか。ちょっと調べてみたい。大城立裕さんはウチナーグチの丁寧語や敬語表現について、もっと研究してほしいと、確かシンポジウムで提言されていたと記憶している。

所で、ユネスコが組踊を世界無形文化財として登録した時、決して組踊の詞章を波照間永吉さんのように「首里方言」とは記載していない。古語である。正確には「沖縄の古語」。 the ancient language of Okinawa 沖縄の古語、ユネスコの翻訳は「沖縄の古来からの言葉」としている。

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しまくとぅば「カナ」でどう書く? 沖縄県が表記法まとめホームページで公開 普及・継承の一助にhttps://ryukyushimpo.jp/news/entry-1525912.html
2022年5月31日 10:13
  • しまくとぅば
  • 沖縄方言 
  • 方言
 沖縄県しまくとぅば正書法検討委員会(委員長・波照間永吉名桜大学大学院特任教授)は、これまで統一されていなかったしまくとぅばのカタカナによる表記法をまとめ、30日に県庁で玉城デニー知事に手渡した。県は「標準的な仮名文字表記の確立がしまくとぅばの多様性に理解を深め、普及・継承の効果を高める」としている。
報告書を玉城デニー知事(左から4人目)に手渡す県しまくとぅば正書法検討委員会の波照間永吉委員長(同3人目)ら=30日、県庁

 しまくとぅばには現代の日本語にはない音があることなどから、研究者らがさまざまな表記を提示してきたが統一されていない。

 県の表記法は複数の研究者でつくる同委員会が5年間をかけてまとめた。

 子どもにも理解しやすいカタカナで国頭、沖縄、宮古、八重山、与那国の5言語の表記を県のホームページで公開した。

 ただ表記の統一については「今後も慎重に検討していく必要がある」としている。

 波照間委員長は「一音一音を仮名にしっかり対応させる表音性や簡潔性、体系性、親近性を重視して検討した。シマジマで考えられてきた表記を否定するものではない。研究にも教育にも役立つものができたのではないか」と語った。

 玉城知事は「県の普及事業でも活用し、普及・継承の効果を高めていきたい」と述べた。
(宮城隆尋)
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正書法はカタカナに決まったのですね。今頃知りました。メンバーが西岡、中原、狩俣、波照間委員長で、欧米で言語学で博士号を取得した言語学者がお一人も入っていないのが、欠陥かもしれませんね。昨今、ペルーに住む従兄弟がご自分と家族の物語を送ってきているのですが、ローマ字表記がされています。伊波普猷が試みた表記法が海外に住むウチナーンチュにとってもいいと考えるのだが、この素晴らしい4人の委員の先生方のセンスは日本国内で通用するセンスでしょうか?言語ではなく方言派の方々ですね。

★沖縄県における「しまくとぅば」の表記について 

(備忘録)
1710
徳川家宣(いえのぶ)将軍襲職の慶賀使、尚益王(しょうえきおう)襲封の謝恩使。
玉城朝薫は与力として同行し、薩摩藩江戸屋敷で女踊「くりまへをどり」、江戸城で歌・三線(うた・サンシン)を披露

file:///C:/Users/nasak/Downloads/jbknp_56_502_shimamura_etal.pdf ←直に
浮縄雅文集


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